ティエリ・アンリ(Thierry HENRY)
フルネーム ティエリ・ダニエル・アンリ
国籍 フランス
出身地 レ・ユリス
生年月日 1977・8・17
身長 188cm
体重 78kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1997・10・11
南アフリカ戦
代表背番号 12
W杯メンバー 98年 02年
06年 10年
ニックネーム ティティ
個人タイトル 95/96ディヴィジョンアン年間最優秀選手
96/97リーグアン年間最優秀若手選手(UNFP)
00,03〜06フランス年間最優秀選手
00UEFA欧州選手権ベストイレブン
00/01〜05/06プレミアリーグベストイレブン(PFA)
01/02,03/04〜05/06プレミアリーグ得点王
00/01〜03/04,05/06UEFAベストイレブン
03,04プレミアリーグ年間最優秀選手(PFA)
03,04,06プレミアリーグ年間最優秀選手(FWA)
03FIFAコンフェデレーションズ・カップ得点王(4得点)・MVP
03/04,04/05ヨーロッパ・ゴールデンブーツ
03,06オンズドール
04プレミアリーグ年間最優秀選手(リーグ選定)
06FIFA/FIFProベストイレブン
06FIFAワールドカップベストイレブン
11,12,14MLSベストイレブン
チームタイトル 96/97ディヴィジョンアン
96UEFAU−18欧州選手権
98FIFAワールドカップ
00UEFA欧州選手権
03FIFAコンフェデレーションズ・カップ
01/02,03/04プレミアリーグ
01/02,02/03,04/05FAカップ
08/09,09/10リーガ・エスパニョーラ
08/09コパ・デル・レイ
08/09UEFAチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
94/95 モナコ
95/96 モナコ 12 18
96/97 モナコ 12 36
97/98 モナコ 12 30
98/99 モナコ 12 13
98/99 ユヴェントス(イタリア) 6 16
99/00 アーセナル(イングランド) 14 31 17
00/01 アーセナル(イングランド) 14 35 17
01/02 アーセナル(イングランド) 14 33 24
02/03 アーセナル(イングランド) 14 37 24
03/04 アーセナル(イングランド) 14 37 30
04/05 アーセナル(イングランド) 14 32 25
05/06 アーセナル(イングランド) 14 32 27
06/07 アーセナル(イングランド) 14 17 10
07/08 バルセロナ(スペイン) 14 30 12
08/09 バルセロナ(スペイン) 14 29 19
09/10 バルセロナ(スペイン) 14 21
10 ニューヨーク・レッドブルズ(アメリカ) 14 11
11 ニューヨーク・レッドブルズ(アメリカ) 14 26 14
11/12 アーセナル(イングランド) 12
12 ニューヨーク・レッドブルズ(アメリカ) 14 25 15
13 ニューヨーク・レッドブルズ(アメリカ) 14 30 10
14 ニューヨーク・レッドブルズ(アメリカ) 14 30 10
一瞬にしてDFを置き去りにするスピードでゴールを容易に陥れる世界屈指のストライカー。ボディバランスに優れ、足元のテクニックやFKなど高い決定力を誇ります。
身長は高いほうですが、ヘディングはあまり得意ではありません。WG経験があるため、ライン際に開いて中に切れ込むプレーを得意としています。

移民が多く住む町レ・ユリスで生まれ、6歳で地元のクラブチームに入団します。平日はストリートサッカーに明け暮れていました。12歳でパレゾーというクラブに入りました。
その後INF(国立サッカー研修所)に入り、後に代表で共にプレーするアネルカらと共に成長。卒業後に1年在籍したヴェルサイユでは、22試合で76ゴールと驚異的な数字を残します。
1994年、17歳でスカウトされたモナコに入団。下部組織でゴールを量産していたのをトップチームのヴェンゲル監督に注目され、WGとして1994年8月31日ニース戦でデビューします。96/97シーズンに36試合に出場しリーグ優勝に貢献。翌シーズンも30試合に出場し、初出場となったチャンピオンズ・リーグでは左WGながら7ゴールを挙げてベスト4に進みました。
98/99シーズンの冬にユヴェントスへ移籍しますが、サイドで守備を求めるアンチェロッティ監督の戦術に合いませんでした。持ち味であるスピードを活かせず3ゴールに終わり、ジダンやインザーギら攻撃陣との関係を構築することもできませんでした。
99/00シーズン、移籍金約22億2700万円でR・マドリーへ移っていったアネルカの代役として恩師ヴェンゲル監督が率いるアーセナルへ移籍。1999年8月7日レスター戦でプレミアデビューを果たします。やがてCFにコンバートされ17ゴールを記録しました。
01/02シーズンはリーグとカップの2冠を達成し、自身も24ゴールを挙げて得点王に輝きました。翌シーズンは本拠ウェストハム戦でハットトリックを達成しました。さらに03/04シーズンには本拠リヴァプール戦でのハットトリックや本拠リーズ戦での1試合4ゴールなど、2度目の得点王とゴールデンシュー(ヨーロッパリーグで最もゴールを決めた選手に贈られる)を獲得し、チームをイングランド史上115年ぶりとなる無敗優勝に導きました。04/05シーズンもチェルシー戦など5度の1試合2ゴールを挙げ、終盤には2度もハットトリックを決めました。
05/06シーズンにヴィエラがユヴェントスへ去り、キャプテンに就任。10月18日チャンピオンズ・リーグのスパルタ・P戦で2ゴールを挙げ、I・ライトが保持していた通算185ゴールを更新するなど大会通算5ゴールを挙げ、クラブ史上初の決勝へ導きます。この大舞台でもキャンベルの先制ゴールをアシストしましたが逆転負けを喫し、ビッグイヤー獲得はなりませんでした。対戦したバルセロナへの移籍が取りざたされていましたが、アーセナルとの契約を延長します。国内ではハイバリー最後の試合となったウィガン戦でハットトリックを決めました。
06/07シーズンはケガに泣かされ17試合の出場に終わりましたが、通算380試合に出場、226のクラブ歴代最多ゴール記録を残して8シーズン過ごしたロンドンを後にしました。
07/08シーズン、2年越しのバルセロナ移籍が決まり、背番号もクライフの「14」になります。8月26日開幕ラシン戦でリーガデビューし、ロナウヂーニョ、エトー、メッシとの世界最強カルテットに注目が集まります。アウェーのレバンテ戦でハットトリックを決めますが12ゴールに終わり、無冠の戦犯となりました。しかし2年目はホームのバレンシア戦でのハットトリック、アウェーのクラシコでの2ゴールなど19ゴール。チャンピオンズ・リーグでも決勝トーナメントでリヨンから3ゴール、バイエルンから1ゴールなど5ゴールを決め、3冠達成の中心となりました。
3年目は不調に終わり、クラブとの契約が解除されてMLSに参戦します。7月31日ヒューストン戦でデビューし、8月28日サンノゼ戦で初ゴールを挙げます。同時に加入したバルサでの同僚マルケスと共にチーム力を上げると、2年目は2ケタゴールを達成しました。冬にはアーセナルへ短期レンタルで復帰、スーパーサブとしてリーズとのFA杯とサンダーランドとのリーグで決勝ゴールを挙げてガナーズサポーターへ相変わらずの決定力を披露しました。この勢いに乗って迎えたMLS3年目はチームこそ7位でしたが、モントリオール戦でハットトリックを達成するなど15ゴール、12アシストを見せ、18ゴールを挙げたK・クーパーとのコンビも良好であることを示しました。リュインドゥラやケイヒルと周囲が充実し、4年連続2ケタゴールを達成して引退しています。

1996年に行われたU−18欧州選手権ではキャプテンとして出場し、決勝スペイン戦にてゴールを挙げて優勝に貢献。1997年Wユースでは5試合3ゴールを決め、トレゼゲやアネルカと前線を形成しました。翌年10月11日の南アフリカ戦でフル代表デビューします。
母国開催となったW杯では決勝に出場することはありませんでしたが、チーム最多の3ゴールを挙げ初優勝に貢献しました。2年後の欧州選手権でもゴールを量産し3試合連続でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、「スーパーダブル」と呼ばれるW杯、欧州選手権を連続で制しました。
しかし2002年W杯では、ジダンが直前の韓国との練習試合で右足を負傷しチームは開幕戦で敗北、自身もリーグ戦の疲れと長時間の遠征のためかトップフォームになれず、グループリーグ2試合目のウルグアイ戦で悪質なファールを見舞ったとして25分に退場、3戦目のデンマーク戦に出場できませんでした。チームも1ゴールも奪えずグループリーグで敗退しました。
しかし翌年のコンフェデ杯では5試合で4ゴールを挙げ復調をアピールします。カメルーンとの決勝でのゴールは、大会中に急逝したMFフォエに捧げました。
2004年欧州選手権予選では6ゴールを決めて出場権を獲得します。本大会のグループリーグはイングランドやクロアチアと厳しい顔合わせでしたが突破し、自身はスイス戦でゴールを挙げました。しかし準々決勝でギリシャの守備に苦しみ敗れました。
2006年W杯予選は6試合で2ゴールと物足りない数字で、相変わらずの代表との相性の悪さを露呈しますが、本大会では韓国戦で前半早々に先制ゴールを決めます。その後トーゴ戦でもだめ押しゴールで決勝トーナメントに進出します。ブラジルとの準々決勝は後半12分にジダンのFKにダイレクトで合わせ先制ゴールを叩き込み、勝利に貢献しました。
2008年欧州選手権予選は8試合で6ゴールと役割を果たします。特に代表42試合目となる2007年10月17日リトアニア戦ではプラティニの歴代最多ゴール記録を更新しました。本大会ではクラブの不振が響き初戦をベンチで過ごすと、続くオランダ戦では反撃ののろしを上げるゴールを挙げるものの、その後に追加点を奪われ、グループリーグで姿を消しました。
2010年W杯予選では11試合でチーム最多タイの4ゴールを記録します。しかしプレーオフのアイルランド戦でガラスのゴールを呼び込むハンドを犯し、そのままプレーオンになったことで試合後は大きな議論を呼びました。本大会では2試合の途中出場に終わり、チームには内紛も勃発してグループリーグで敗退、大会終了後に引退しました。
代表記録 122試合51得点

2006年9月16日:新規アップ 2015年7月18日更新