柱谷 幸一(Koichi HASHIRATANI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 柱谷 幸一(ハシラタニ コウイチ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 京都府京都市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1961・3・1 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 178cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1981・1・25 ポーランド戦 |
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代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 83日本サッカーリーグ新人王 | ||||||||||||||||||||||||||||
83,84,88/89日本サッカーリーグベストイレブン | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 83,85,88,89,91天皇杯 | ||||||||||||||||||||||||||||
88/89,89/90日本サッカーリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
88,89,90JSLカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
91/92アジアカップウィナーズ・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
83 日産自動車(JSL) | 18 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
84 日産自動車(JSL) | 17 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
85 日産自動車(JSL) | 22 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 日産自動車(JSL1部) | 22 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 日産自動車(JSL1部) | 13 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 日産自動車(JSL1部) | 22 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 日産自動車(JSL1部) | 11 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 日産自動車(JSL1部) | 5 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 日産自動車(JSL1部) | 10 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
92 浦和レッズ 11 | |||||||||||||||||||||||||||||
93 浦和レッズ | 18 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
94 浦和レッズ | 7 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
94 柏レイソル(JFL) 45 | 16 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
95 柏レイソル | 31 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
96 柏レイソル | 25 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
身体的には特筆すべきものはありませんが、得点感覚、突破力、キープ力に優れ、泥臭くゴールを陥れるCFです。実弟は日本代表DF柱谷哲二です。 幼少期から運動神経が発達しており、住んでいたところにサッカーチームができるまではソフトボールをしていましたが、小学5年の時に花園少年団が創設されサッカーに専念します。 中学時代は学校自体がサッカーに力を入れてなかったこともあり、練習環境が良かったとは言えない状況でしたが、それでも全国大会ではベスト8進出を果たしました。その敗れた対戦相手のチームには、後にチームメートとなる水沼貴史が在籍していました。 高校には、京都商業(現京都学園)に進みます。強豪の中にあって1年よりレギュラーとして起用され、全国選手権出場を果たしました。1977年には国体で準優勝となりました。 当時は教職免許取得を目指していたので、サッカーと両立させるべく国士舘大へ進学します。ここでは4年次にチームの全国制覇に貢献しました。 1983年に日産自動車(現横浜FM)に入社します。開幕からレギュラーの座を掴み、第4節マツダ(現広島)戦で初ゴールを挙げて波に乗ると、シーズン7ゴール5アシストの大活躍を見せて、新人王を獲得しました。また、天皇杯決勝ヤンマー(現C大阪)戦で追加点を挙げて優勝に貢献。木村や水沼、金田らと共に活躍し、80年代末の日産黄金期に欠かせない選手として君臨しました。87シーズンからの5年間は、弟哲二ともプレーしています。 そして1992年、旧知の仲である森監督が率いる浦和へ移籍。精神的支柱としての活躍が期待された矢先、肉離れを起こして離脱します。これによりチームは最下位に沈みました。 その後JFLの柏に移籍してJリーグへの昇格に貢献。在籍中は中盤でのプレーもありましたが、本来のポジションでは、ブラジル代表カレカやエヂウソンと2トップを組みました。 引退後は監督業や解説者として活躍しています。 JSL 140試合52得点 Jリーグ 81試合8得点 大学在学時、1979年に日本で開催されたWユース代表として3試合戦います。1981年1月25日ポーランド戦でフル代表デビューし、2日後のポーランド戦で初ゴールを挙げます。 以降は、クラブでも共にプレーする木村、水沼、三菱(現浦和)の原、読売(現東京V)の戸塚らと共に80年代の代表を支えます。そして1986年W杯予選で6試合、1990年W杯予選で2試合に出場しますが、いずれも突破はなりませんでした。 代表記録 33試合4得点 2007年2月7日:新規アップ 2012年3月3日更新 |