ヴァヒド・ハシェミアン(Vahid HASHEMIAN) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | ヴァヒド・ハシェミアン | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イラン | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | テヘラン | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1976・7・21 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 182cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 78kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1998・12・1 カザフスタン戦 |
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代表背番号 | 9 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 06年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ヘリコプター | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
98/99 パス・テヘラン | |||||||||||||||||||||||||||||
99/00 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 | 12 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00/01 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01/02 ボーフム(ドイツ2部) 16 | 21 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
02/03 ボーフム(ドイツ) 16 | 34 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
03/04 ボーフム(ドイツ) 16 | 32 | 16 | |||||||||||||||||||||||||||
04/05 バイエルン(ドイツ) 9 | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05/06 ハノーファー(ドイツ) 16 | 29 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
06/07 ハノーファー(ドイツ) 16 | 31 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
07/08 ハノーファー(ドイツ) 16 | 20 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
08/09 ボーフム(ドイツ) 16 | 16 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
09/10 ボーフム(ドイツ) 16 | 25 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
10/11 ペルセポリス | 7 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
11/12 ペルセポリス | 15 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
身長の高さは標準的ですが、滞空時間の長いジャンプが武器で空中戦にめっぽう強く、「ヘリコプター」の異名をとるイラン代表ストライカーです。 16歳の時に地元のクラブでプロのキャリアがスタートします。そしてハンブルガーSVのオファーを受けてドイツへ渡ります。しかし出場機会が限られ、インパクトを残せませんでした。 01/02シーズン開幕前に当時2部のボーフムへ移籍すると、才能が開花します。21試合で8ゴールとまずまずの結果を残し、チームを1部リーグへ導きました。 02/03シーズンはスーパーサブとして開幕から2戦連続ゴールを挙げ、レヴァークーゼンやシュツットガルト戦で1試合2ゴールなど2ケタに乗せ、1部リーグ残留に貢献しました。さらに03/04シーズンはPK無しの16ゴールと高い決定力をみせつけ、ブンデスリーガのランキング4位に入りました。この活躍でリーグ5位となり、UEFA杯出場権を獲得しています。 2004年4月に約2億6000万円でバイエルンに移籍し、アリ・ダエイに次ぐクラブ2人目のイラン人プレーヤーとなりました。得点源だったエウベルが抜け、彼がつけていた背番号9が与えられるなど大きな期待を受けましたが、わずか9試合、それもほとんどが途中出場と戦力外に等しい扱いを受け、1年でドイツの名門を去ることになりました。 その後ハノーファーに移籍すると、再び持ち味を発揮するようになりましたが、3シーズン目は精彩を欠き、ボーフムへ移籍。小野とのホットラインでチームを残留に導くことが期待されたものの、ケガもあり終盤のフランクフルト戦での1ゴールに終わります。2年目は王者ヴォルフスブルクとシャルケからゴールを奪いましたが、続きませんでした。 10/11シーズンより母国リーグに復帰、36歳の誕生日で引退を発表しています。 1998年12月のカザフスタンとの親善試合でフル代表デビューしました。その後アジア大会では決勝でクウェートを破って優勝しました。 2002年W杯の予選当初はスタメンでプレーしていましたが、途中からサブに降格し、タイとの試合直後から代表を離れます。その影響でチームは本大会出場を逃しました。 その後はクラブに注力していましたが、2006年W杯予選中にイヴァンコビッチ監督の説得に応じて代表復帰します。直後の2004年10月、アウェーでのカタールとの対戦でいきなり2ゴールを挙げると、2005年3月に故郷テヘランで行われた日本戦ではヘディングと強烈な右足のシュートで2ゴールを挙げるなど、2大会ぶりの本大会出場に貢献しました。 初出場となったドイツW杯では、全3試合スタメン出場しました。ピッチの特徴を既に知り尽くしていたこともあり期待されましたが、残念ながらノーゴールに終わりました。 2010年W杯予選韓国戦では、大統領選挙で敗れた改革派を象徴する緑色のリストバンドを身につけてプレーしたため、カリミやマハダヴィキアらと共に代表から永久追放されました。 代表記録 50試合14得点 2006年8月25日:新規アップ 2014年7月15日更新 |