長谷川 祥之(Yoshiyuki HASEGAWA)
フルネーム 長谷川 祥之(ハセガワ ヨシユキ)
国籍 日本  
出身地 京都府宇治市
生年月日 1969・2・11
身長 179cm
体重 69kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1995・2・15
オーストラリア戦
代表背番号 9 17
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 93,97ファーストステージ
96,98,00,01Jリーグ
97,00天皇杯
97,00,02ナビスコカップ
98,00,01セカンドステージ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
90/91 本田技研(JSL1部)
91/92 本田技研(JSL1部) 22
92 鹿島アントラーズ    
93 鹿島アントラーズ 30
94 鹿島アントラーズ 43 21
95 鹿島アントラーズ 42 16
96 鹿島アントラーズ 25 12
97 鹿島アントラーズ 11 27
98 鹿島アントラーズ 11 26 14
99 鹿島アントラーズ 11 21
00 鹿島アントラーズ 11
01 鹿島アントラーズ 11 11
02 鹿島アントラーズ 11 25
03 鹿島アントラーズ 11
上背はないものの抜群の跳躍力を誇り、絶妙なタイミングでの滞空時間の長いジャンプで正確かつ強烈なヘディングを繰り出します。また、スペースへ飛び出す一瞬のスピードやポジショニングなど天性の嗅覚を備えた鹿島のストライカーです。

小学3年でサッカーを始めます。宇治高時代高校選手権出場はなりませんでした。その後関西2部大阪経済大に進みます。やがてレギュラーとして活躍して得点王になり、チームを1部に導きました。3年、4年でもコンスタントに得点を重ねて3年連続で得点王になりました。
大学を卒業すると、JSLの本田技研(現ホンダFC)へ加入。DF勝矢やMF北澤らと共に中心的な存在となり、JSL杯やコニカ杯では得点を量産してチームを決勝に導くと、天皇杯でもベスト4に進出するなど出色の活躍を見せました。しかしクラブがJリーグに加入しない方針だったため、宮本監督やMF本田泰、FW黒崎らと共に鹿島へ移籍します。
ここでジーコの薫陶を受けて大きく成長します。Jリーグの前哨戦となった1992年ナビスコ杯では9試合に出場し、V川崎(現東京V)戦の2点など通算7得点を奪い、カズと得点王のタイトルを争いました。この活躍で弱小と目されていたチームはベスト4に進出したのです。
1993年5月16日名古屋戦でJリーグにデビューし、2戦目の横浜F戦で初得点と即座に結果を残します。黒崎やアルシンドと競争が激しく2ケタには惜しくも届きませんでしたが、初代年間王者に輝きました。94シーズンは開幕戦で得点を決めてJFLから昇格した磐田に洗礼を浴びせ、レオナルドやジョルヂーニョのバックアップもあってコンスタントに結果を残しました。
アルシンドがV川崎へ去った95シーズンも、2ndステージG大阪戦でハットトリックを決めるなど好調をキープしましたが、その後はマジーニョや柳沢の加入もあってポジションを下げました。それでも98シーズンは14得点でクラブ2度目の年間王者に貢献しました。
やがて平瀬、鈴木隆、本山と相次ぐアタッカーの加入でチームの世代交代が進み途中出場が多くなりますが、抜群の勝負強さで少ないチャンスをものにします。00シーズンに唯一挙げた得点はJリーグ通算6500号となりました。それでも加齢や慢性的なヒザのケガには勝てず、03シーズン限りで現役を引退して若手の育成に携わっています。
鹿島歴代最多得点記録を持ち、自身が得点を決めた試合は負けないという不敗神話も築くなど、サポーターにとって伝説的な存在であるのは間違いないところです。
JSL:22試合4得点 J1:260試合89得点

加茂監督に招集され、1995年2月15日オーストラリア戦で代表デビュー。クラブの僚友黒崎やカズとも2トップを組みましたが、定着には至りませんでした。
代表記録 6試合
2013年10月8日:新規アップ