長谷川 健太(Kenta HASEGAWA)
フルネーム 長谷川 健太(ハセガワ ケンタ)
国籍 日本  
出身地 静岡県静岡市
生年月日 1965・9・25
身長 177cm
体重 77kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1989・1・20
イラン戦
代表背番号 9 12 13
W杯メンバー  
ニックネーム ケンタ
個人タイトル  
チームタイトル 88/89,89/90日本サッカーリーグ
88,89,90JSLカップ
88,89天皇杯
95ダイナスティカップ
96ナビスコカップ
99セカンドステージ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
88/89 日産自動車(JSL1部) 18
89/90 日産自動車(JSL1部) 11
90/91 日産自動車(JSL1部)
92 清水エスパルス    
93 清水エスパルス 36 10
94 清水エスパルス 44
95 清水エスパルス 21
96 清水エスパルス 24
97 清水エスパルス 9 30
98 清水エスパルス 9 31
99 清水エスパルス 9 21
サッカー王国清水の伝説的なプレーヤーの一人。ストライカーというイメージがありますが、高精度の右足クロスは自らの名にちなみ「ケンタリング」と名づけられました。
強くて巧みなドリブルもあり、アグレッシブな性格も手伝って、その突破はそのまま相手への脅威となります。ただ、自身はWGのポジションで好んでプレーしませんでした。

9歳の時に友達の誘いを受けてチームに入り、サッカーを始めます。1974年W杯で活躍した西ドイツ代表FWミュラーに憧れ、ドリブルスキルを磨きました。
やがて市の選抜チーム(清水FC)に入り、その後共に「清水東三羽ガラス」と呼ばれるようになるMF大榎、DF堀池と初めて一緒のチームとなりました。特に大榎とは互いに刺激し合うライバル同士となりました。1977年に第一回全国少年サッカー大会に出場して決勝にコマを進めますが、埼玉県代表の与野下落合とは延長でも決着がつかず、3対3のドローで両チーム優勝となり、喜びの感情がこみあげることはありませんでした。
中学を卒業後、将来的に教師になることも考慮し清水東に入学。1年次に国体を制すると、2年時に高校選手権に出場し5試合プレー。準々決勝帝京戦で左足シュートを決めて勝利すると、決勝では隣県の韮崎(山梨)に4−1と快勝し全国制覇を果たします。
翌年はFW武田が加わり、自身は主将として高校選手権で5試合プレー。6万2千の観衆で行われた帝京との決勝では完封負けを喫し、連覇はなりませんでした。卒業後は筑波大へ進みます。大榎は早大、堀池は順大とそれぞれ別の進路を選び、ライバル対決を繰り広げました。
大学卒業後に日産(現横浜FM)に入社。金田、木村、水沼、柱谷幸ら代表勢の存在によりレベルアップを遂げ、堀池が所属するライバル読売クラブ(現東京V)との試合でゴールを挙げるなど、クラブの黄金時代に欠かせない存在として名をはせました。
しかし、1990年に右ヒザ十字じん帯を損傷し翌5月29日に手術を受けてリハビリに専念。実戦から遠ざかりますが、その頃に故郷の清水からオファーを受けます。ケガを承知で誘ってくれたクラブに恩義を感じ移籍を決意。また、ヤマハ(現磐田)でプレーしていた大榎を説得し共に入団すると、堀池もクラブからのオファーを断り、三浦泰と共に清水へ戻ってきました。
自身は実戦復帰までに9ヶ月ほどを要したもののJリーグ開幕に間に合い、ナビスコ杯へ出場。10試合で2ゴールを挙げ決勝にコマを進めました。
Jリーグ開幕後はエース、主将としてチームをけん引。リーグタイトルには手が届きませんでしたが、1996年ナビスコ杯で優勝し、1999年2ndステージを制覇しました。
解説者や大学での指導をした後2005年に清水に就任。初年度は天皇杯で準優勝しますが、リーグは残留するのが精いっぱいでした。その後2年続けてリーグ4位となったのが最高で、08シーズンにナビスコ杯、10シーズンに天皇杯準優勝とタイトル獲得はなりませんでした。
13シーズンに初めてJ2を戦うG大阪に就任。途中で欧州から復帰した宇佐美のゴールラッシュもありチームは1年でJ1に戻ります。翌シーズンは序盤こそ低迷しましたが、W杯終了後から順位を上げます。前年に続く宇佐美の各コンペティションでのコンスタントな働きもあり、00シーズンの鹿島に次ぐ日本史上2度目の3冠を達成しました(昇格初年度では日本史上初)。
JSL1部:33試合9得点 J1:207試合45得点

代表デビューは1989年の初戦、1月20日イラン戦です。1990年W杯予選で4試合プレーし、インドネシア戦で初ゴールを挙げました。その後ダイナスティ杯やアジア大会などの経験を積みますが、カズの合流や中山、福田、高木などの台頭に自らのケガがあり代表から離れました。1994年W杯予選はイラク戦(ドーハの悲劇)のスタメンなど3試合に出場しました。
ファルカン体制にも召集され、1995年ダイナスティ杯を制しています。
代表記録 27試合4得点

2008年3月8日:新規アップ 2014年12月14日更新

07清水エスパルス
チョ・ジェジン 矢島卓郎
  フェルナンヂニ  
兵働昭弘 藤本淳吾
  伊東輝悦  
児玉新 市川大祐
高木和道 青山直晃
  西部洋平  

10清水エスパルス
 ヨンセン 
岡崎慎司藤本淳吾
兵働昭弘小野伸二
 本田拓也 
太田宏介市川大祐
平岡康裕岩下敬輔
 西部洋平 

14ガンバ大阪(J2度目の3冠)
宇佐美貴史 パトリック
大森晃太郎倉田秋
遠藤保仁今野泰幸
藤春廣輝オ・ジェソク
岩下敬輔丹羽大輝
 東口順昭