長谷部 誠(Makoto HASEBE)
フルネーム 長谷部 誠(ハセベ マコト)
国籍 日本
出身地 静岡県島田市
生年月日 1984・1・18
身長 177cm
体重 65kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK  
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2006・2・11
アメリカ戦
代表背番号 13 17 35
W杯メンバー 10年 14年
ニックネーム ハセ
個人タイトル 04Jリーグベストイレブン
04ナビスコカップ・ニューヒーロー賞
チームタイトル 03ナビスコカップ
04セカンドステージ
05,06天皇杯
06Jリーグ
07AFCチャンピオンズ・リーグ
08/09ブンデスリーガ
11AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
02 浦和レッズ 32
03 浦和レッズ 17 28
04 浦和レッズ 17 27
05 浦和レッズ 17 31
06 浦和レッズ 17 32
07 浦和レッズ 17 31
07/08 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 16
08/09 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 25
09/10 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 24
10/11 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 23
11/12 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 23
12/13 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13 23
13/14 ヴォルフスブルク(ドイツ) 13
13/14 ニュルンベルク(ドイツ) 15 14
14/15 フランクフルト(ドイツ) 20 33
15/16 フランクフルト(ドイツ) 20 32
16/17 フランクフルト(ドイツ) 20 22
17/18 フランクフルト(ドイツ) 20    
中央から一気に加速するドリブルと抑えの利いたミドルに、強靭なフィジカルと無尽蔵のスタミナ、落ち着いた性格を併せ持つ2010年代の日本代表キャプテンです。

サッカーの名門藤枝東高校を卒業して浦和に入団。ルーキーの年はチームの大黒柱の福田正博がいたため出番がありませんでした。2年目もエヂムンドや山瀬功治の存在がありましたが、両者とも相次いで離脱したため、レギュラーに定着して28試合に出場しました。
2004年は各個人賞を受賞し飛躍を遂げ、2005年の天皇杯準決勝の大宮戦では得意のドリブルで50m独走してシュートを決めました。最終的には天皇杯制覇に貢献して存在を不動のものとします。しかし2006年は小野伸や鈴木啓とのポジション争いを演じました。
ドイツの強豪バイエルンやイタリアのシエナなどからのオファーがある中、07シーズン終了後にドイツのヴォルフスブルクに移籍し、2008年2月3日ビーレフェルト戦でブンデスリーガにデビューします。レヴァークーゼンとのアウェー戦で初ゴールをマークしました。
厳しい練習で知られるマガト監督の下で成長し、激しいポジション争いを見せながら本職のMFだけでなく右SBにも対応するなど2年目は25試合に出場、アウェーのハノーファー戦で2アシストを見せて5−0での勝利に貢献し、クラブ史上初、日本人としては77/78シーズンに奥寺康彦が達成して以来実に約30年ぶりのブンデスリーガ優勝を経験しました。
3年目はマガト監督が去りましたが、リーグで5アシストをマーク。チャンピオンズ・リーグではマンチェスター・U戦でジェコの先制点をおぜん立てするものの、逆転負けを喫しました。最終的にC・モスクワにも交わされ敗退しましたが、グループリーグ全6試合に出場しました。
4年目はマクラーレン監督の下でチームが低迷しますが、マガト監督の復帰で1部残留に成功。5年目はトップ下でも試され、第3節で初ゴールと即座に結果を残します。しかし本来のボランチでの起用が少なく移籍を志願したことから6年目はマガト監督の構想から外れます。ヂエゴら周囲からの信頼はあったものの、試合勘が鈍って代表でのプレーにも支障をきたす苦しい時期を過ごします。しかしチームが低迷してマガト監督が去った初戦のデュイスブルク戦でアシストし、ホッフェンハイム戦では1ゴール1アシストと徐々に本来の調子を取り戻しました。
しかしL・グスタヴォの加入でポジション争いが激化し、13/14シーズンに本職でのプレーを求めてニュルンベルクへ移籍。清武と中盤を形成しますが、冬にヒザを痛めて戦列を離れます。最終節に復帰するも降格し、乾が所属するフランクフルトと2年契約を交わします。33試合先発とシャーフ監督から絶大な信頼を受けて充実したシーズンを送りました。2年目も終盤に1得点1アシストを決めてチームの1部残留に貢献しました。3年目はCBにも対応し、キャプテンも任されるなどポジションが同じN・コヴァチ監督から全幅の信頼を受けます。フライブルク戦では奥寺のブンデスリーガ最多出場記録を更新しますが、続くバイエルン戦で負傷しました。

2006年1月の代表合宿や2月のアメリカ遠征に召集を受け、11日のアメリカ戦で日本代表デビュー。アジア杯予選インド戦に先発してゴールを決めたかに思われましたが、放ったシュートがFW巻に当たったため、協議の結果自身のゴールにはなりませんでした。最もハードルが高い中盤のポジションで最後までアピールを続けましたが、ドイツへは行けませんでした。
オシム監督就任当初に呼ばれ、海外移籍を経て岡田監督就任後のW杯予選では海外組の一人として召集されポジションを確保。2010年W杯予選では9試合出場して、遠藤とのコンビを盤石なものとします。そして大会前の強化試合でゲームキャプテンに指名され、阿部が加わった3ボランチによる連携で堅守を見せ、日本躍進の立役者となりました。
2011年アジア杯では本格的なリーダーとして、全6試合に先発出場。グループリーグのシリア戦でミドルを決め、日本にとって2大会ぶりの優勝に貢献しました。
2014年W杯予選は13試合に出て遠藤との中盤を絶対的なものにします。コンフェデ杯ではブラジルとイタリアに敗れて3戦目の出場を回避しました。W杯ではケガの回復具合が懸念されるも3試合に先発、遠藤と前後半を分担しましたが、グループリーグ敗退に終わりました。
アギーレ監督の下でもキャプテンを務め、2015年アジア杯で4試合に出場しました。

代表記録
2006年4月23日:新規アップ 2017年6月2日更新