フルネーム ヴァヒド・ハリルホジッチ
国籍 ボスニア・H  
出身地 ヤブラニツァ
生年月日 1952・5・15
身長 182cm
体重 80kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1976・6・19
オランダ戦
代表背番号 13 19
W杯メンバー 82年
ニックネーム ヴァハ
個人タイトル 82/83,84/85ディヴィジョンアン得点王
チームタイトル 80/81ユーゴスラヴィアリーグ
82/83ディヴィジョンアン
所属クラブおよび背番号 出場 得点
72/73 ヴェレズ・モスタル
73/74 ヴェレズ・モスタル 24
74/75 ヴェレズ・モスタル 30 16
75/76 ヴェレズ・モスタル 34 19
76/77 ヴェレズ・モスタル 23 10
77/78 ヴェレズ・モスタル 27 18
78/79 ヴェレズ・モスタル 28 16
79/80 ヴェレズ・モスタル 11
80/81 ヴェレズ・モスタル 22 11
81/82 ナント(フランス) 28
82/83 ナント(フランス) 36 27
83/84 ナント(フランス) 29 13
84/85 ナント(フランス) 34 27
85/86 ナント(フランス) 36 18
86/87 パリ・サンジェルマン(フランス) 18
裏への飛び出しやこぼれ球への反応、ヘッドやFKとどんな形でも枠に飛ばします。また、高質のオフ・ザ・ボールでチャンスを促すユーゴスラヴィア屈指のFWです。

自宅近くのT・ヤブラニツァでサッカーを始め、14歳の時にモスタルにある電気工学の学校に進みます。2年後にV・モスタルのユースへ移って技術を高め、2年半が過ぎた後クラブとプロ契約を交わします。その後は2部N・メトコヴィッチへの半年間レンタルで経験を積みました。
チームに戻った72/73シーズンからキャリアが始まり、FWバイェヴィッチとのコンビで2年連続でリーグ2位となりました。その後はMFヴラディッチやスリスコヴィッチの後援もあってコンスタントに点を取りましたが、H・スプリトやレッドスター、パルチザンの前にリーグ優勝はなりませんでした。それでも376試合253得点(リーグ戦通算207試合103得点)をマークし、80/81シーズンにはカップ戦決勝ゼレツニカール戦で2点を挙げ、初タイトルを自ら引き寄せました。
81/82シーズンにナントへ移籍します。1年目こそ苦しみましたが、2年目は27得点で得点王になり、クラブを3年ぶりの王者に導きました。これを受けて出場したチャンピオンズ杯では1回戦でR・ウィーンに敗れました。4年目も得点王でリーグ2位、アルゼンチン代表ブルチャガが入った5年目も2位に入るなど、163試合92得点とナントでも確たる足跡を残しました。
病気を患う父親の存在もありモスタルに戻ることも考えましたが、PSGからの好条件のオファーを受けます。ここではロシュトーや同胞スシッチなどの存在もあり出場機会は限られましたが、それでもFW最多の8得点を挙げました。チャンピオンズ杯ではヴィトコヴィツェに敗れ、再び1回戦敗退となりました。シーズン中に母親が他界したこともあり、終了後に引退しました。
その後は古巣V・モスタルから指導者としてのスタートを切り、フランスやアフリカのクラブと代表を歴任、2015年に日本代表に就任しています。

1976年6月19日、欧州選手権3位決定戦オランダ戦で代表デビュー。2年後のU−21欧州選手権はオーバーエージで出場し、得点王とMVPになる活躍で母国を優勝に導きました。
1982年W杯予選は5試合で3点を取りましたが、2試合に出た本大会では不発に終わりました。4年後の大会の予選も1試合戦っています。
代表記録 15試合8得点

※:ヴァヒド・ハリルホジッチ(Vahid HALILHODZIC)

2015年3月12日:新規アップ