ヴァヒド・ハリルホジッチ(Vahid HALILHODZIC)
フルネーム ヴァヒド・ハリルホジッチ
国籍 ボスニア・H  
出身地 ヤブラニツァ
生年月日 1952・10・15
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1990〜92 ヴェレズ・モスタル
1993〜94 ボーベ(フランス)
1997〜98 ラジャ・カサブランカ(モロッコ)
1998〜02 リール(フランス)
2002〜03 レンヌ(フランス)
2003〜05 パリ・サンジェルマン(フランス)
2005〜06 2014〜14 トラブゾンスポル(トルコ)
2006〜08 アル・イテハド(サウジアラビア)
2007〜10 コートジボワール代表
2010〜11 ディナモ・ザグレブ(クロアチア)
2011〜14 アルジェリア代表
2015〜18 日本代表
2018〜   ナント
獲得タイトル 97CAFチャンピオンズ・リーグ
03/04フランス・カップ
現役時代は1970年代から80年代のユーゴスラヴィアを代表するストライカー。V・モスタルやナントで活躍し、後者では2度の国内リーグ得点王になりました。

ピッチ内外で規律を重視する厳格な指導者として知られます。選手と衝突することもあるものの、感情を前面に押し出すモチベーターでもあります。
4−2−3−1、4−3−3、4−4−2と4バックを採用することが多く、その中でも自分が率いるチームや対戦相手の情勢を把握したフレキシブルな采配を振るいます。FW出身で攻撃サッカーを志向しますが、強烈なプレスを徹底させるなど守備も得意とします。

86/87シーズンに現役を退き、1990年に古巣V・モスタルで指導者のキャリアを始めます。3年目にボスニア紛争に巻き込まれて自らも負傷したものの、一命は取り留めました。
その後激化する一方の戦争から逃れるべく渡仏します。1年間ボーベで指導し、ブランクを経て1997年に就任したR・カサブランカではクラブ2度目のアフリカ王者に輝きました。
その後フランスに戻って2部のリールに就任します。1年目は4位でしたが、2年目はB・シェイルやコートジボワール代表バカリを中心に2部で優勝すると、昇格組として迎えた00/01シーズンはCBシガンを中心にリーグ最少の27失点で3位と快進撃を見せました。
翌シーズン、クラブ初出場のチャンピオンズ・リーグでは予備選3回戦でパルマと対戦。イタリア人MFダミーコを中田英のマークに付かせ、合計2−1で突破します。1次リーグはデポルティボと引き分け、マンチェスター・Uとのアウェー戦で敗れます。そして最も実力が拮抗しているオリンピアコスとの第3節からの連戦で1勝1敗となったのが響き3位になります。その後のマンチェスター・Uとデポルティボとは共にドローになっただけに惜しまれる結果となりました。
チームは3位になってUEFA杯に移ります。3回戦でフィオレンティーナに合計3−0と完勝し、4回戦で準優勝になるドルトムントにアウェーゴールの差で敗れました。国内リーグも5位で、失点数は優勝したリヨンと同数のリーグ4位タイとなる31と、過密日程で選手層が薄い状況にありながらも極端な弱化は見られず、徹底した守備的なサッカーで成功を収めました。
2002年11月、開幕から7試合連続で勝利が無いレンヌに就任します。チェコ代表GKチェフやCBエスキュデ、FWピキオンヌを軸に15位で終えて降格を回避しました。
これにより11位に沈み、ロナウヂーニョがバルサへ去ったPSGの再建を託されます。開幕5試合こそ1勝1分3敗と最悪の立ち上がりとなりましたが、穴埋めとして取ったパウレタが額面通りの働きを見せ、冬に獲ったセルビア代表のリュボヤがこのエースの負担を軽減します。中盤はカメルーン代表エムバミやアルゼンチン代表ソリン、アルバニア代表サナとフィジカルに強みを持つ面々を並べ、最終ラインには元々ボランチのデウを下げ、アルゼンチン代表エインセをCBから左に移して守備を安定させました。6節以降はわずか3敗で乗り切ってリーグ2位、6年ぶりの国内カップ優勝と首都クラブ復権の足がかりとなります。リーグの覇権奪還が叫ばれる2年目はコロンビア代表ジェペスやモナコで名を上げたロテンを獲りましたが、前者を軸とした最終ラインは機能せず、後者はケガで離脱しました。また、チャンピオンズ・リーグではC・モスクワに2試合で5失点を喫するなど最下位でグループリーグを終えました。結果が出ず求心力が低下する中でも強硬的な姿勢を貫いたため、反発する選手たちと衝突して2月に解任されました。しかしクラブとサポーターが対立し、クラブも過去の移籍に関する不正疑惑が浮上しており、選手がプレーに集中できない状況ではありました。
トラブゾンスポルでは、3強に次ぐ4位でUEFA杯出場権を獲得する及第点の結果を残すものの、1年で退任しました。続くサウジアラビアでもごく短期間で終わりました。
2008年5月にコートジボワール代表に就任。ドログバ、S・カルー、ジェルヴィーニョ、ゾコラ、トゥーレ・Yを中心に臨んだ2010年アフリカ選手権は、準々決勝アルジェリア戦で延長の末に敗れ、4ヶ月後に控えたW杯予選など24試合連続無敗がストップして解任されました。
10/11シーズンにD・ザグレブに就任。ヨーロッパリーグではビジャレアルとPAOKの前に決勝トーナメント進出はなりませんでした。国内リーグではバデリやサミールの活躍にコヴァチッチのトップデビューなどで優勝への道筋をつけますが、シーズン終了を前に退任しました。
2011年6月にアルジェリア代表に就任し、4−2−3−1の布陣と組織的なプレッシングを持ち込みます。アフリカ選手権こそ2012年は予選で敗退し、翌年はグループリーグ最下位に終わりますが、2014年W杯2次予選ではマリを振り切り、ブルキナファソとの最終予選ではアウェーゴールの差で勝利します。右のフェグーリや中盤のベンタレブ、CBメジャニとフランスユース代表経験者を取り込み、スリマニという頼れるFWの出現とチーム力が高まって迎えた本大会、ベルギーとの初戦では後半の途中までリードしていましたが、相手の選手交代を機に逆転負けしました。韓国との2戦目は4人の攻撃陣のうちフェグーリ以外を入れ替え、その3人がいずれもゴールを挙げる最高の形となりました。ロシア戦でもスリマニが同点ヘッドを決めて引き分けに持ち込み、4度目の出場となったアルジェリアを初の決勝トーナメント進出に導きます。優勝候補の一角ドイツ戦でも2枚のボランチを入れ替えながらも主導権を握りますが、延長に入って疲労の色が濃くなり2点を献上、それでも最後に一矢報いました。
大会終了後、アルジェリアからの慰留を固辞してトラブゾンスポルに復帰。半年足らずで契約を解除しましたが、ミランからオファーが届くなど動向が注目されていました。
2015年3月、八百長問題でアギーレ監督を解任した日本代表に就任。「決闘」を意味する「デュエル」と、選手に1対1や球際の強さを求め、縦への素早いカウンターを標榜します。2018年W杯3次予選は初戦でシンガポールに引き分けますが、その後7連勝しました。
最終予選は本拠UAE戦で敗れ、本田圭や香川、岡崎ら主力が軒並みクラブで出場機会を減らしてチーム作りに苦心します。その中で4試合連続ゴールを挙げる原口、クラブで活躍する久保裕、戦術のキーマンになる大迫と新たな攻撃陣が台頭します。また、長谷部が抜けた穴を今野が埋め、川島もクラブでの不遇を感じさせないプレーを披露。さらに浅野拓、井手口と若手のゴールでオーストラリアを下し、日本に6大会連続の出場権をもたらしました。
その後の親善試合はニュージーランドとハイチに1勝1分に終わりました。本田圭、香川、岡崎を外して臨んだブラジル戦とベルギー戦は連敗しました。日本でのE−1は国内組で臨み、北朝鮮と中国に連勝しますが、韓国には先制した後4失点と惨敗しました。
2018年3月のマリ戦では中島がゴールを挙げて抜擢に応えますが、ウクライナに敗れました。4月に入り突如解任され、志半ばで日本代表から離れました。
18/19シーズン、現役を過ごしたナントに32年ぶりに復帰しています。

2015年3月14日:新規アップ 2018年10月4日更新

01/02リール
ブトアル バカリ
B・シェイル ステリョフスキ
ダミーコ S・エンディアイェ
エケール ピショ
シガン ファーミ
  ヴィンベー  

03/04パリ・サンジェルマン(国内カップ優勝)
  パウレタ  
  リュボヤ  
ソリン フィオレス
サナ エムバミ
エインセ マンディ
ピエール=ファンファン デウ
  アロンゾ  

10コートジボワール代表
  ドログバ  
カルー(ジェルビーニョ) B・コネ
ロマリッチ トゥーレ・Y
  ゾコラ  
ボカ エブエ
バンバ K・トゥーレ
  バリ  

14アルジェリア代表(W杯ベスト16)
  スリマニ  
  タイデル  
スダニ フェグーリ
ラセン モステファ
グラン マンディ
ハリシェ ベルカレム
  エムボリ  
17日本代表
 大迫勇也 
原口元気久保裕也
井手口陽介山口蛍
 長谷部誠 
長友佑都酒井宏樹
槙野智章吉田麻也
 川島永嗣