権田 修一(Shuichi GONDA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 権田 修一(ゴンダ シュウイチ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 東京都世田谷区 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1989・3・3 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 187cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 83kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | GK | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2010・1・6 イエメン戦 |
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代表背番号 | 23 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 14年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ゴンちゃん | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 09ナビスコカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
11天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
11AFCアジアカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
07 FC東京 34 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08 FC東京 19 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 FC東京 20 | 34 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
10 FC東京 20 | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
11 FC東京(J2) 20 | 20 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
12 FC東京 20 | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
13 FC東京 20 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
14 FC東京 20 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
15 FC東京 1 | 22 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
15/16 ホルン(オーストリア3部) 33 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
16/17 ホルン(オーストリア2部) 33 | 15 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
17 サガン鳥栖 33 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
18 サガン鳥栖 33 | 34 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
18/19 ポルティモネンセ(ポルトガル) 16 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
19/20 ポルティモネンセ(ポルトガル) 16 | |||||||||||||||||||||||||||||
飛距離、精度ともに高質のフィードで攻撃の起点となり、長身とリーチを活かしたハイボール処理、果敢な飛び出しや鋭い反応、熱いコーチングでチームの屋台骨となる守護神です。 幼稚園の時に母親のアドバイスをきっかけにサッカーを始めます。1994年W杯で活躍するアメリカ代表メオラに影響を受け、当初からGKとしてプレーします。さぎぬまSCには小学2年で世田谷区に引っ越した後も在籍し続け、川崎市選抜チームのメンバーになりました。 横浜FMと川崎Fの下部組織を受験して、いずれも合格。さらに湘南からもオファーされるなど神奈川県内で指折りの実力を持っていましたが、小学校の近所にあるサッカースクールに来ていたFC東京のコーチの指導に好感触を得て同クラブのU−15に入りました。中学時代には3度も優勝を経験するなど実績を作り、国士館高2年の時にトップチームに昇格します。 2種登録選手としてチームに帯同し、土肥や塩田といった先達のプレーを吸収しますが、翌年に首を痛めて長いリハビリを経験します。そして塩田が麻痺性腸閉塞で離脱してチャンスがめぐり、2009年3月7日新潟との開幕戦でJリーグにデビューします。その試合で4失点、続く浦和戦で3失点と苦しいスタートとなりましたが、その後2戦連続で完封します。最終的には16試合を完封し、93シーズンにV川崎(現東京V)の菊池新が達成したJの記録に並びました。 その後単身イタリアに渡り、ブッフォンを指導したフルゴーニ氏から個人指導を受けてレベルアップを果たします。徳永や長友、今野といった面々との連係も上がっていましたが、クラブ11年ぶりのJ2降格が決まりました。その後は塩田の巻き返しもあり20試合に終わりましたが、1年でのJ1復帰を達成。天皇杯でも5試合守ってクラブ初タイトル獲得に貢献しました。12シーズンはACLにも5試合出場。リーグ戦ではその後ゆるぎない守護神となり続けました。 15/16シーズンに本田圭が経営に携わるオーストリア3部ホルンへレンタル移籍します。2試合の出場でしたがチームは2部に昇格し、15試合に出場しました。 17シーズンに鳥栖へ移り、正守護神として一ケタ順位に貢献。2年目は残留争いに巻き込まれますがルーキー以来の全試合出場を果たし、代表に復帰しました。 19シーズンにフリーでポルティモネンセへ移籍し、5月17日ブラガとの最終節でポルトガルリーグにデビューしています。 U−14から各年代を経験、2004年のU−17アジア選手権を経て2007年のU−20W杯では飛び級で招集されますが、練習中の負傷で離脱しました。2年後の大会予選を兼ねたアジアユース選手権では準々決勝で韓国に敗れて出場権を逃しました。しかし2012年ロンドン五輪では6試合に出場して44年ぶりのベスト4に貢献しました。 2010年1月6日イエメン戦でフル代表デビュー。翌年のアジア杯で第3GKとして優勝メンバーに名を連ね、2013年コンフェデ杯、2014年W杯のメンバーにも選出されました。 その後森保監督により代表に復帰し、2019年アジア杯では正守護神として6試合に出場しますが、決勝でカタールに3失点を喫して準優勝に終わりました。 東アジア杯は2013年大会に1試合出場しています。 代表記録 余談 ・メオラの他、デンマーク代表P・シュマイケルのプレーを参考にしています。 2017年12月9日:新規アップ 2019年6月7日更新 |