スティーヴン・ジェラード(Steven GERRARD)
フルネーム スティーヴン・ジョージ・ジェラード
国籍 イングランド
出身地 ウィストン
生年月日 1980・5・30
身長 188cm
体重 79kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2000・5・31
ウクライナ戦
代表背番号 4 16
W杯メンバー 06年 10年
14年
ニックネーム スティーヴィー
個人タイトル 00/01,03/04〜06/07,08/09,13/14
プレミアリーグベストイレブン(PFA)
00/01イングランド最優秀若手選手(PFA)
04/05UEFA最優秀選手
04/05〜06/07UEFAベストイレブン
05/06イングランド年間最優秀選手(PFA)
06/07イングランド年間最優秀選手(FA)
07,08FIFProベストイレブン
09FIFA/FIFProベストイレブン
08/09イングランド年間最優秀選手(FWA)
12UEFA欧州選手権ベストイレブン
チームタイトル 00/01,02/03,11/12イングランドリーグ・カップ
00/01UEFAカップ
00/01,05/06FAカップ
04/05UEFAチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
98/99 リヴァプール 28 12
99/00 リヴァプール 28 29
00/01 リヴァプール 17 33
01/02 リヴァプール 17 28
02/03 リヴァプール 17 34
03/04 リヴァプール 17 34
04/05 リヴァプール 8 30
05/06 リヴァプール 8 32 10
06/07 リヴァプール 8 36
07/08 リヴァプール 8 34 11
08/09 リヴァプール 8 31 16
09/10 リヴァプール 8 33
10/11 リヴァプール 8 21
11/12 リヴァプール 8 18
12/13 リヴァプール 8 36
13/14 リヴァプール 8 34 13
14/15 リヴァプール 8 29
15 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 8 13
16 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 8 21
献身的な動きを身上とする世界屈指のセンターハーフにしてリヴァプールの魂。当たりに強く、空中戦も得意とします。得点力もあり、ミドルの威力、スピードはミサイルを思わせるほどです。
クラブでも代表でも不可欠の存在であるため離脱した時の周囲への影響は甚大ですが、小さいケガが頻発するのがウイークポイントです。

ウィストンに生まれ、幼少時代は地元のストリートでボールを追いかけていました。9歳の時にリヴァプールにスカウトされ、育成組織でオーウェンとともに成長します。
18歳で卒業し、1998年11月29日ブラックバーン戦でトップデビューします。レギュラーだったポール・インスの退団に伴いポジションを確保して29試合に出場しました。
00/01シーズンは、レドナップの離脱を埋める活躍を見せてカップ三冠に貢献し、UEFA杯では決勝アラヴェス戦でゴールも記録、イングランドの最優秀若手選手賞を受賞しました。
01/02シーズンはリーグ2位になりましたが、2月にはチャンピオンズ・リーグのガラタサライ戦で負傷してW杯を棒に振りました。02/03シーズンは5ゴール8アシストと復調し、03/04シーズンには10月にヒーピアから腕章を譲り受けてチームを牽引する立場になりました。
04/05シーズンはチェルシーへの移籍がうわさされる中、クラブへの忠誠を誓います。ベニテス監督が就任し、X・アロンソの加入でトップ下にポジションを移し、4ゴール7アシストと役割を果たしました。リーグ杯でオウンゴールを献上し、国内リーグでも勝てない試合が続きましたが、チャンピオンズ・リーグではグループリーグ最終節のオリンピアコス戦で逆転ゴールを決め、準決勝チェルシー戦ではアシストを見せて勝利に貢献します。決勝ではミランに前半で3点を与えましたが、後半にヘディングで反撃の口火を切ると、スミチェルとX・アロンソのゴールで同点になり、PK戦を制してクラブを21年ぶりの欧州の頂点に押し上げました。この功績が認められてUEFA最優秀選手に選ばれ、バロンドール投票でも3位になりました。その後のクラブW杯ではサプリサとの準決勝でゴールを挙げましたが、決勝でサンパウロに敗れました。
05/06シーズンのFA杯は決勝ウェストハム戦でのボレーなど6試合4ゴールで優勝、リーグでも10ゴール5アシスト、チャンピオンズ・リーグでも12試合で7ゴール。07/08シーズンは国内で11ゴール11アシスト、チャンピオンズ・リーグで13試合でインテルやアーセナルからなど6ゴールを挙げました。また、FA杯ではルートン相手にハットトリックを達成しています。
08/09シーズンは、本拠アストン・ヴィラ戦でのハットトリックなどF・トーレスを上回るリーグ3位の16ゴールに9アシストを決めます。チャンピオンズ・リーグでも8試合戦い、マルセイユやR・マドリー相手の1試合2ゴールなど7ゴールと驚異的な決定力を見せました。翌シーズンもリーグで9ゴール7アシストと、アンフィールドに歓喜をもたらし続けました。
10/11シーズンもマンチェスター・Uとのアウェー戦で2ゴール、ヨーロッパリーグでもナポリ戦でハットトリックを達成しますが、出色のパフォーマンスの代償は大きく21試合の出場に終わりました。30歳を越えたことも考慮して両足付け根の手術に踏み切ります。復帰後はFA杯で2ゴール4アシストで9年ぶりのタイトルに貢献し、リーグでもマージーサイドダービーでハットトリックを達成するなど、サポーターを安心させる働きを見せます。そして12/13シーズンは3試合連続ゴールにマンチェスター・C戦でのミドルなど9ゴール9アシストと完全復活を遂げます。翌シーズンはアンカーとしてスアレス、スターリッジ、スターリングといった攻撃陣を操り、自身も10本もPKを成功させます。いとこを亡くした「ヒルズボロの悲劇」25周年の追悼試合となったマンチェスター・C戦を制した後は、感極まる場面がありました。チームは優勝に向けて走るだけでしたが、本拠チェルシー戦でトラップミス、さらにスリップします。これを相手FWデンバ・バに狙われカウンターから失点、連勝は11で止まりました。続くC・パレス戦も引き分け、土壇場で優勝トロフィーを逸しました。そして14/15シーズンを最後にプロ入り以来戦ってきたアンフィールドから離れました。
そしてロスに移籍し、2015年7月18日サンノゼ戦でのMLSデビューをゴールで飾ります。ロビー・キーンやG・ドス・サントスと連携し、2年目を最後に引退しました。

2000年にキーガン監督により、20歳の誕生日の翌日となる5月31日の親善試合ウクライナ戦で代表デビューを果たします。2002年W杯予選ドイツ戦では初ゴールとなるボレーを決めてアウェー戦を5−1で勝ちましたが、本大会はケガで出場できませんでした。
2004年欧州選手権ではバックパスを奪われる失態も演じましたが、ゴールを決めて穴埋めに成功、全試合に出場しベスト8に進出しました。
2006年W杯予選では7試合で2ゴールを挙げ本大会に出場。トリニダード・トバゴ戦では、終了間際に左足でダメ押しゴールを挙げ、続くスウェーデン戦後半40分にゴールを挙げました。その後ポルトガルとの準々決勝ではPK戦でキックを失敗して敗れました。
2008年欧州選手権予選は11試合で3ゴールを挙げますが、クロアチアやロシアに敗れ、まさかの予選敗退となります。しかし2010年W杯予選では7試合に出場、ホームのクロアチア戦で2点を取って雪辱を果たし、本大会ではアメリカ戦でゴールを挙げました。
2012年欧州選手権予選は序盤の3試合に終わりましたが、ホジソン監督により本大会メンバーに選ばれ、全4試合とかつてのフォームを取り戻しました。
2014年W杯予選も8試合2得点と、ランパードとの熟練した2センターを見せます。本大会では3試合に出場しますが、イタリアとウルグアイに連敗しました。
代表記録 114試合21得点

余談
・14歳のころ、マンチェスター・Uのトライアルを受けたことがあります。
2006年5月18日:新規アップ 2016年12月27日更新