ジェレミ・ヌジタップ(GEREMI Njitap)
フルネーム ジェレミ・ソレル・ヌジタップ・フォツォ
国籍 カメルーン
出身地 バフォッサム
生年月日 1978・12・20
身長 175cm
体重 84kg
利き足
ポジション DF(RSB)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1996・10・6
ガボン戦
代表背番号
W杯メンバー 02年 10年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 99/00,01/02UEFAチャンピオンズ・リーグ
00,02アフリカネーションズ・カップ
00シドニーオリンピック金メダル
00/01リーガ・エスパニョーラ
04/05,05/06プレミアリーグ
04/05,06/07イングランドリーグ・カップ
06/07FAカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95/96 ラシン・バッフォッサム    
97 セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)
97/98 ゲンチレルビルリジ(トルコ) 28
98/99 ゲンチレルビルリジ(トルコ) 29
99/00 レアル・マドリー(スペイン) 21 20
00/01 レアル・マドリー(スペイン) 15 16
01/02 レアル・マドリー(スペイン) 15
02/03 ミドルスブラ(イングランド) 14 33
03/04 チェルシー(イングランド) 14 25
04/05 チェルシー(イングランド) 14 13
05/06 チェルシー(イングランド) 14 15
06/07 チェルシー(イングランド) 14 19
07/08 ニューカッスル(イングランド) 20 27
08/09 ニューカッスル(イングランド) 20 15
09/10 ニューカッスル(イングランド2部) 20
09/10 アンカラギュチュ(トルコ) 75 12
10/11 ラリッサ(ギリシャ) 8 10
驚異的なスタミナをベースに右サイドを起点としてピッチを幅広くカバーする安定した守備と機を見ての攻撃参加、高精度のFKにリーダーシップも持ち味です。
豊富な国際経験も魅力で、R・ソングに次ぐキャップ数を誇るカメルーンの重鎮の一人です。

1970年代にカメルーン代表FWとして活躍した父サミュエルの影響を受け、サッカーを始めます。1995年に地元のR・バフォッサムでプロデビューを飾りますが、1年後にはパラグアイの強豪セロ・ポルテーニョへ移籍します。ここでは6試合の出場にとどまり、トルコに渡ります。
ゲンチレルビルリジは強いチームではありませんでしたが、主力として2シーズン57試合9得点と活躍、98/99シーズンには最優秀外国人選手にも選出されました。
そしてベジクタシュを指揮していたトシャック監督が、R・マドリーに就任した際自身の獲得を熱望したことで、スペインリーグへと活躍の場を移します。しかしシーズン途中にトシャック監督が解任され、後任のデル・ボスケ監督がM・サルガドを重用するようになると出場機会が減少します。しかしそれでも2度のビッグイヤー獲得と1度のリーグ制覇、2000年のインターコンティネンタル杯で初来日を果たし4試合1得点の結果を出すなど、多くの経験を積みました。
02/03シーズンに出場機会を求めミドルスブラへレンタル移籍し、8月17日の開幕サウサンプトン戦でプレミアにデビューします。ブラジルのジュニーニョやクロアチアのボクシッチといった実績あるベテランに加え、同胞のFWジョブと共に攻撃を支えます。リヴァプール、チェルシーといった強豪やニューカッスルとのタイン・ウェア・ダービーで得点を挙げるなど、通算33試合7得点8アシストで、マクラーレン監督の期待に応える好成績を残しました。
プレミアで存在価値を示すと、大型補強を敢行するチェルシーに引き抜かれます。デンマークのグロンキアとポジションを争い25試合プレーしますがタイトルには届かず、2年目に就任したモウリーニョ監督からは信頼こそされていたものの、彼が連れてきたP・フェレイラの前に出場機会に恵まれませんでした。06/07シーズンのチャンピオンズ・リーグ、リヴァプールとの準決勝ではPK戦にもつれましたが、相手GKのレイナにキックを止められ敗退しました。
チェルシーとの契約が解消され、07/08シーズンにニューカッスルと3年契約を結びます。豊富な経験が買われ、アラダイス監督から新加入にして主将を任されます。しかしキーガン監督就任後は腕章はオーウェンの手に渡りました。2年目は出場機会が減少し、クラブもシアラー監督の下で再起を図るもプレミア残留はなりませんでした。そしてキャリア初の2部リーグでのプレーを決意しますが、途中で11年ぶりにトルコリーグへ復帰して12試合に出場しました。
その後ギリシャのラリッサでプレーし、1部残留を決めて現役を退いています。

1995年にカタールで開催されたWユースでは4試合プレーし準々決勝に進出します。翌1996年10月1日ガボン戦でフル代表にデビューし、1998年W杯予選では4試合に出場すると、2000年と2002年のアフリカ選手権で優勝します。
また、シドニー五輪では主将としてチームをけん引、ボランチとして5試合出場しエムボマとエトーの前線とGKカメニが構える守備陣とのバランスを保ち、ロナウヂーニョ擁するブラジルやシャビ率いるスペインを下して金メダルを獲得しました。翌年のコンフェデ杯は3試合戦いました。
2002年W杯予選では6試合戦い4大会連続の出場権を手にします。本大会では3試合フル出場するもののチーム内のトラブルにより実力を出せず、グループリーグで敗退しました。
2003年コンフェデ杯は同僚フォエの急逝という悲劇に見舞われましたが、5試合1得点で決勝に進出。2004年アフリカ選手権では準々決勝で敗退し、2006年の同大会では12−11という壮絶なPK戦の末、またも準々決勝でコートジボワールに屈しました。
2006年W杯予選では10試合で2点を挙げますが、コートジボワールの前に勝ち点差1で本大会出場権を逃し、2008年アフリカ選手権ではエジプトの前に決勝で涙をのみました。2010年W杯予選では11試合に出場、ホームのトーゴ戦で得点を挙げ2大会ぶりの出場権を手にします。また、2009年2月11日ギニアとの親善試合で100キャップを刻みました。
2010年アフリカ選手権ザンビア戦で得点を挙げましたが、ル・グエン監督からの信頼を得られず、強化試合ではサブに降格しました。しかしW杯本大会ではスタメンに返り咲きました。
代表記録 117試合12得点
2010年6月14日:新規アップ 2014年7月15日更新