ポール・ガスコイン(Paul GASCOIGNE)
フルネーム ポール・ジョン・ガスコイン
国籍 イングランド  
出身地 ゲイツヘッド
生年月日 1967・5・27
身長 178cm
体重 79kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1988・9・14
デンマーク戦
代表背番号
W杯メンバー 90年
ニックネーム ガッザ
個人タイトル  
チームタイトル 90/91FAカップ
95/96,96/97スコットランドリーグ
95/96スコットランドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
84/85 ニューカッスル
85/86 ニューカッスル 31
86/87 ニューカッスル 24
87/88 ニューカッスル 35
88/89 トッテナム 32
89/90 トッテナム 34
90/91 トッテナム 26
91/92 トッテナム
92/93 ラツィオ(イタリア) 22
93/94 ラツィオ(イタリア) 17
94/95 ラツィオ(イタリア)
95/96 レンジャーズ(スコットランド) 28 14
96/97 レンジャーズ(スコットランド) 26 13
97/98 レンジャーズ(スコットランド) 20
97/98 ミドルスブラ(2部)
98/99 ミドルスブラ 8 26
99/00 ミドルスブラ 8
00/01 エヴァートン 18 14
01/02 エヴァートン 18 18
01/02 バーンリー(2部)
02/03 甘粛天馬(中国2部)
04/05 ボストン・ユナイテッド(4部)
無骨なタイプが多いイングランド人選手の中で、豊富なアイディアと華麗なテクニック、高精度のパスでチームの攻撃にアクセントをつける司令塔です。
破天荒な言動によりピッチ内外で多くの事件を起こす問題児ですが、「ガッザ」の愛称で親しまれ、「ガッザ・マニア」と呼ばれるファンも存在するほどの人気を誇ります。

4歳でサッカーを始めます。ミドルスブラやサウサンプトンの入団試験には失敗しましたが、1980年に13歳で地元ニューカッスルのユースへ入団します。
84/85シーズン、FAユース杯決勝ワトフォードとの2ndレグでは2得点を挙げて優勝に貢献。17歳でプロ契約を果たし1985年4月13日QPR戦でリーグデビューします。翌シーズンからチームの中心となり、87/88シーズンにはPFAの若手最優秀賞に選出されました。
この活躍により、ヴェナブルズ監督のオファーを受けて当時最高額の4億円でトッテナムへ引き抜かれます。FWリネカーとのコンビでファンを魅了し、90/91シーズンのFA杯では準決勝アーセナル戦でFKを決めるなど6得点を挙げて優勝に貢献します。しかし、この大会の決勝ノッティンガム戦で右ヒザ靱帯を損傷し、約1年間をリハビリに費やしました。
回復後はクラブが経営難に陥ったためラツィオへ移籍し、1992年9月27日ジェノア戦でセリエAデビュー。ローマダービーで初得点を挙げて実力の片りんを見せます。シニョーリ、カジラギ、ボクシッチとターゲット役に事欠かず実力を発揮できる環境が整っていたものの、ケガに悩まされていたこともあり、思うようなプレーは出来ませんでした。
その後加入したレンジャーズで復活を遂げます。移籍初年度から14得点を挙げてチームをリーグ優勝に導くと共に、リーグ最優秀選手に選出されました。B・ラウドルップ、マッコイスト、デューリーといった面々と良好な連係を築き、翌年にはリーグ、国内カップの2冠達成に貢献します。しかしこの頃からアルコールがプレーに影響するようになります。
97/98シーズン途中に母国へ戻ります。ミドルスブラではプレミアに復帰しますが、全盛期のキレは戻りませんでした。レンジャーズ時代の恩師スミス監督率いるエヴァートンでもケガやヘルニアの手術、アルコール依存症を克服するための渡米と満足にプレーできませんでした。
2年目はFA杯4回戦レイトン戦では4−1の勝利に貢献しましたが、3月に理解者だったスミス監督が辞任すると、自身もバーンリーに移りました。
その後MLSのDC・ユナイテッドのテストを受けるものの契約には至らず、2003年には中国に渡りますが4試合の出場に終わります。4部のボストン・UでPMとなりましたが、半年も経たず退団しました。引退後も度々騒動を起こすなど、変わらずその言動が注目されています。

1988年9月14日デンマーク戦との親善試合で代表デビュー。1990年W杯予選アルバニア戦で初得点を挙げました。本大会では6試合プレーし、延長に入った準決勝西ドイツ戦で警告を受けてチームが勝っても決勝でのプレーができなくなったため、人目もはばからず涙を流した姿は周囲に強い印象を与えました。結局チームはその後PK戦の末敗れました。
8試合プレーしてトルコ戦など計4得点を挙げた1994年W杯予選は敗退しました。2年後の欧州選手権スコットランド戦では味方のロビングに反応すると、ボールを浮かせて相手DFの頭を越え、地面に落とさずそのままボレーを決めました。
1998年W杯予選は6試合に出場しますが、アルコールの影響でコンディションを崩して本大会メンバーから落選、これに激昂して宿舎の壁を壊して話題になりました。
代表記録 57試合9得点

2014年12月31日:新規アップ