福西 崇史(Takashi FUKUNISHI)
フルネーム 福西 崇史(フクニシ タカシ)
国籍 日本 福西
出身地
生年月日 1976・9・1
身長 181cm
体重 77kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1999・6・29
ペルー戦
代表背番号 15 22
W杯メンバー 02年 06年
ニックネーム  
個人タイトル 99,01,02,03Jリーグベストイレブン
09Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 97,02セカンドステージ
98,99,01,02ファーストステージ
97,99,02Jリーグ
98ナビスコカップ
98/99アジアクラブ選手権
03/04天皇杯
04AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 ジュビロ磐田 10
96 ジュビロ磐田 27
97 ジュビロ磐田 23 21
98 ジュビロ磐田 23 22
99 ジュビロ磐田 23 27 10
00 ジュビロ磐田 23 27
01 ジュビロ磐田 23 29
02 ジュビロ磐田 23 28
03 ジュビロ磐田 23 26
04 ジュビロ磐田 23 26
05 ジュビロ磐田 23 23
06 ジュビロ磐田 23 26
07 FC東京 37 28
08 東京ヴェルディ 23 29
少年時代に体操をしており、強さとしなやかさが同居した身体能力は日本人の中でも群を抜いています。ポーカーフェイスが印象的で気持ちを前面に出すわけではありませんが、アウェーでも臆することがない精神的な強さを持ち、涼しい顔できわどいプレーを見せます。
もともと攻撃的なポジションでプレーしていたので、前線への的確なパスや点であわせるヘディングシュートなど、攻撃への貢献度も高い選手です。

小学4年からサッカーを始めるという比較的遅いスタートながら、その後中学、高校へ進学。磐田のスカウトの目に留まり、1995年に高校を卒業して入団しました。
アマチュア時代ではFWとしてプレーしていましたが、磐田のサテライトへ入った時に守備的MFにコンバートされました。そして8月16日にデビューして9月6日に初ゴールを挙げました。
世界を制したブラジル代表のキャプテン、ドゥンガがチームに入ってきました。格好のお手本とプレーする機会を得、中盤で共にプレーすることで長足の成長を遂げました。
ドゥンガが抜けた後は名波とコンビを組み、彼の攻撃センスをバックアップします。1999年は名波のコーナーキックからヘディングシュートを決める場面が多々あり、10ゴールを挙げました。自身の活躍に加え周囲にも攻守にタレントがそろい鹿島と並んで2強の一角となり、1990年代後半は毎年何らかのタイトルを獲得するなど黄金時代を築きました。
その後藤田、名波、服部などがチームから離れるものの、05シーズンからキャプテンとして過渡期のチームを牽引すると共に、攻撃的MFとして新境地を開きました。
07シーズンに長年親しんだ磐田を離れ、FC東京に移籍します。今野や梶山など同ポジションに若手がそろう中28試合で6ゴールと存在感を示し、08シーズンよりJ1に復帰した東京Vに電撃移籍します。ここでも豊富な経験を生かして活躍したもののJ2降格が決定、クラブとの契約が更新されなかったこともあり、現役を終えています。

トルシエ監督の下で臨んだ1999年6月29日南米選手権ペルー戦にて、田坂に代わって前半30分に途中交代でフル代表デビュー。次の試合のパラグアイ戦ではスタメン出場します。
2000年のアジア杯は予選と本大会ともに出場できず、しばらく代表から離れましたが、2002年W杯メンバーに選ばれました。しかし稲本と戸田の前にバックアッパーの役割を求められ、ロシアとの第2戦、稲本との交代でわずか5分のプレーに終わっています。
ジーコ監督になり、黄金の中盤と呼ばれる中田英、中村俊、小野、稲本の陰に隠れましたが、2004年アジア杯では決勝の中国戦でヘディングを決め初の国際タイトルを獲得。2006年W杯予選は9試合戦い、イランとのアウェー戦ではクロスにファーサイドで反応して左足ボレーを決めるなど、小笠原、大黒と並ぶ最多タイの3得点で、2度目の出場権を手にしました。
2005年コンフェデ杯で3試合プレーした後、2006年W杯では初戦と2戦目に先発出場しますが、その後は稲本にポジションを譲りました。
代表記録 64試合7得点
※愛媛県新居浜市
2006年11月28日:新規アップ 2012年3月3日更新