ジュス・フォンテーヌ(Just FONTAINE) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | ジュス・フォンテーヌ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | フランス | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1933・8・18 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 72kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1953・12・27 ルクセンブルク戦 |
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代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 58年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 57/58,59/60ディヴィジョンアン得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
58FIFAワールドカップ得点王(13得点) | |||||||||||||||||||||||||||||
58/59UEFAチャンピオンズ・カップ得点王(10得点) | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 53/54,57/58フランスカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
55/56,57/58,59/60,61/62ディヴィジョンアン | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
50/51 USMカサブランカ(モロッコ) | |||||||||||||||||||||||||||||
51/52 USMカサブランカ(モロッコ) | |||||||||||||||||||||||||||||
52/53 USMカサブランカ(モロッコ) | |||||||||||||||||||||||||||||
53/54 ニース | 24 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
54/55 ニース | 28 | 20 | |||||||||||||||||||||||||||
55/56 ニース | 17 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
56/57 スタッド・ランス | 31 | 30 | |||||||||||||||||||||||||||
57/58 スタッド・ランス | 26 | 34 | |||||||||||||||||||||||||||
58/59 スタッド・ランス | 32 | 24 | |||||||||||||||||||||||||||
59/60 スタッド・ランス | 28 | 28 | |||||||||||||||||||||||||||
60/61 スタッド・ランス | 7 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
61/62 スタッド・ランス | 7 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
瞬発力と敏捷性に優れ、そのスピードを武器にゴールを量産するCF。しかしそのプレースタイルにより削られることが多く、晩年にケガに悩まされた末の早期引退は惜しまれるところです。 フランス人の父とスペイン人の母の間にモロッコのマラケシュに生まれます。スポーツ万能でしたがサッカーに絞り、タバコ工場で働く父の仕事の都合でカサブランカへ移住します。 17歳でUSMとプロ契約を結び、3シーズンプレー。53/54シーズンにニースに移籍すると、国内カップでは決勝でマルセイユを2−1で下し、3年目にはリーグ優勝しました。 S・ランスでは1年目にリーグに加えニームとの決勝ではゴールを挙げて2冠を達成。その後得点王になってチームを優勝に導き、R・マドリーへ去ったコパの穴を埋めました。 58/59シーズンのチャンピオンズ杯では10ゴールを挙げて得点王になります。チームは決勝に進みましたが、コパ擁するR・マドリーに0−2で敗れました。 60/61シーズンに復帰したコパとタッグを組むもソショー戦で負傷、翌年に同じ個所を傷め、アキレス腱の手術も受け、29歳の誕生日1ヶ月前での引退を余儀なくされました。 その後は監督に転身してPSGやモロッコ代表を指導。後者では1980年アフリカ選手権で生まれ故郷を3位に導いています。 1953年12月27日のルクセンブルク戦でハットトリックと鮮烈な代表デビューを飾ります。そしてわずかなキャップ数にもかかわらず1958年W杯メンバーに選ばれます。 当初はバックアッパーでしたが、レネ・ブレアの負傷によりレギュラーになります。そしてコパらの後援によりパラグアイ戦でハットトリック、ユーゴスラビア戦で2ゴール、スコットランド戦で1ゴールを決めて決勝トーナメントに進出します。 その後準々決勝北アイルランド戦で2ゴールを挙げました。ブラジルとの準決勝では主将ジョンケのケガで数的不利になり敗れますが、相手の大会無失点記録を破りました。 ドイツとの3位決定戦でも4ゴールを挙げ、6試合13ゴールとハンガリーのコチシュによる前回大会での11ゴールを上回る1大会での最多記録を樹立しました。また、この記録は1974年大会で西ドイツのG・ミュラーに破られるまで歴代最多でもありました。 その後1960年欧州選手権予選はギリシャに2ゴール、オーストリアにハットトリックを決めてチームを圧勝させますが、クラブでのケガにより本戦を棒に振りました。 代表記録 21試合30得点 ※:モロッコ国籍もあり 2018年12月1日:新規アップ |