アルセニオ・エリコ(Arsenio ERICO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | アルセニオ・パストル・エリコ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | パラグアイ | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | アスンシオン | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1915・3・30 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | |||||||||||||||||||||||||||||
体重 | |||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | |||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | |||||||||||||||||||||||||||||
代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | アベジャネダの半神 | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 37,38,39アルゼンチンリーグ得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 38,39アルゼンチンリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
34 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 21 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
35 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 18 | 22 | |||||||||||||||||||||||||||
36 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 26 | 21 | |||||||||||||||||||||||||||
37 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 34 | 47 | |||||||||||||||||||||||||||
38 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 30 | 43 | |||||||||||||||||||||||||||
39 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 32 | 40 | |||||||||||||||||||||||||||
40 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 30 | 29 | |||||||||||||||||||||||||||
41 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 27 | 26 | |||||||||||||||||||||||||||
42 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 3 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
43 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 29 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
44 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 26 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
45 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 30 | 20 | |||||||||||||||||||||||||||
46 インデペンディエンテ(アルゼンチン) | 19 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
47 ウラカン(アルゼンチン) | 7 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
敏捷性や跳躍力といった先天性にドリブルや正確なシュートもあり、多彩なスキルで歓喜を呼ぶパラグアイ最高のFWで、アルゼンチンリーグ最多得点記録保持者です。 首都アスンシオンに生まれ、15歳の時にナシオナルでプロデビューします。2年後、パラグアイとボリビアの間で起きたチャコ戦争の負傷者救済のために結成された赤十字のチームでアルゼンチンに遠征した際、インデペンディエンテからオファーを受けて入団します。 1934年5月5日にアルゼンチンリーグデビューしますが、最初の2シーズンは二度に渡る腕の骨折に苦しみながらも十分な結果を残すと、37シーズンに47得点を挙げて初の得点王になります。そして得点王を3年連続で獲り、チームをリーグ2連覇に導きました。 インデペンディエンテの本拠地から「アベジャネダの半神」という異名を授かるなど、サポーターから多くの支持を集め、1938年には自身の得点数にちなんだ「43」という銘柄のタバコも発売されました。そのプレーは若き日のアルフレッド・ディステファノにも影響を与えたのです。 47シーズンにはウラカンに移籍しますが無得点に終わります。それでもアルゼンチンリーグで残した通算325試合293得点という偉大な数字は、移籍市場が整備され活発となった現代においては事実上不滅の記録といっても過言ではないといえます。 引退後は指導者に転身し、1977年7月23日に62歳で亡くなっています。 国内リーグでの活躍に、1938年W杯出場を前にしたアルゼンチン協会から帰化を要請されましたが、パラグアイ国民としての誇りを持ち固辞します。現役当時は代表チームの活動が組織化されていなかったため、パラグアイ代表としての試合出場はありません。 代表記録 26試合56得点(非公式) 余談 ・「赤い跳躍者」というニックネームもあります。 2014年9月14日:新規アップ |