遠藤 保仁(Yasuhito ENDO)
フルネーム 遠藤 保仁(エンドウ ヤスヒト)
国籍 日本 遠藤保
出身地
生年月日 1980・1・28
身長 178cm
体重 75kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2002・11・20
アルゼンチン戦
代表背番号 4 7
W杯メンバー 06年 10年
14年
ニックネーム ヤット
個人タイトル 03〜12,14,15Jリーグベストイレブン
08日本年間最優秀選手
08AFCチャンピオンズ・リーグ最優秀選手
09アジア年間最優秀選手(AFC)
14Jリーグ年間最優秀選手
チームタイトル 98,08,09,14,15天皇杯
04,11AFCアジアカップ
05,14Jリーグ
07,14ナビスコカップ
08AFCチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
98 横浜フリューゲルス 27 16
99 京都サンガ 14 24
00 京都サンガ 14 29
01 ガンバ大阪 19 29
02 ガンバ大阪 30 30
03 ガンバ大阪 7 30
04 ガンバ大阪 7 29
05 ガンバ大阪 7 33 10
06 ガンバ大阪 7 25
07 ガンバ大阪 7 34
08 ガンバ大阪 7 27
09 ガンバ大阪 7 32 10
10 ガンバ大阪 7 30
11 ガンバ大阪 7 33
12 ガンバ大阪 7 34
13 ガンバ大阪(J2) 7 33
14 ガンバ大阪 7 34
15 ガンバ大阪 7 34
16 ガンバ大阪 7 34
17 ガンバ大阪 7 31
18 ガンバ大阪 7 34
19 ガンバ大阪 7    
広い視野と正確なパスに裏付けされる展開力で試合を作ります。鋭いFKに独特な助走で成功率が高いPKとプレースキックも見どころ。強心臓でプレーに安定感があり、誰と組んでも機能する柔軟性や情勢を把握する戦術眼と、長所を挙げれば枚挙にいとまがありません。

鹿児島市では「遠藤三兄弟」として名をはせます。長男拓哉、次男彰弘(横浜FM、神戸)の影響は大きく、自身が日本代表の中心になっても、憧れとなり続けます。
小学3年から本格的に取り組みます。サッカーが盛んな土地柄に加え、二人の兄のプレーに刺激を受けてWGやトップ下でプレーしました。桜島中学を経て兄と同様鹿児島実業へ進みます。ブラジルへの留学やブラジル人コーチからの指導でレベルアップを遂げ、高校選手権に3年連続で出場します。1年の時はFW平瀬の活躍で静岡学園と両校優勝。2年次にはベスト8進出を果たすものの、3年次は負傷して2回戦で敗退し不完全燃焼に終わりました。
高校を卒業して横浜Fに入団。1998年3月21日の横浜M(現横浜FM)戦でのJリーグデビューを開幕スタメンで飾り、8月1日鹿島戦で初得点を挙げました。ブラジル代表サンパイオや山口素、三浦淳などの好選手に囲まれ16試合出場と高卒ルーキーとしてまずまずの結果を残し、天皇杯優勝にも立ち会えましたが、チームが消滅する憂き目に遭いました。
99シーズンに京都へ移籍。中盤の底でシジクレイや三浦文とコンビを組み、クロアチアから帰国したカズなどFW陣へチャンスを演出しましたが、翌シーズンに降格となりました。
そして01シーズンよりG大阪へ移籍します。マグロン、大黒、アラウーヂョなどをアシストすると共に自らの得点数も増加、毎シーズンのようにJリーグベストイレブンに選出されるようになり、国内屈指の存在となります。05シーズンには初のリーグ制覇を成し遂げました。
06シーズンは代表で遠征した際体調を崩して肝炎で入院。自身の離脱と共にチームも失速します。浦和との最終節での直接対決には間に合ったものの、実力を発揮するには至らず連覇を逃しました。ACLでは2006年に5試合2得点を挙げると、2008年は10試合出場、浦和との両試合やアデレードとの決勝で点を取ってチームを優勝に導き、大会MVPになりました。
2008年クラブW杯では3試合プレー。アデレードから決勝点を挙げ、マンチェスター・U戦ではファン・デル・サールからPKを決めてファーガソン監督から称賛されるなど、3位決定戦を制しました。2009年はACLこそ6試合1得点で終わりましたが、リーグで2度目の2ケタ得点、天皇杯連覇と質の高いプレーを続け、日本人5人目のアジア年間最優秀選手に輝きました。
その後はクラブ代表共に自身への依存度が増し、コンディション調整に苦しむ場面が増えます。12シーズンは攻撃こそJ1最多得点ながら失点も多く、監督交代もあって降格しました。翌シーズンは主将を任され、試合数の多いJ2と代表とのタイトな日程に臨みます。そしてレアンドロや復帰した宇佐美らと共にチームを1年でJ1に戻ります。14シーズンも宇佐美とのホットラインなどリーグ最多の14アシストを決めて2度目の優勝を決め、天皇杯、ナビスコ杯と合わせて00シーズン以来の鹿島以来となるJ史上2度目の3冠になり、MVPになりました。
12試合に出た15シーズンのACLでは準決勝で広州恒大に敗れました。18シーズンには32節湘南戦でフィールドプレーヤー初のJ1通算600試合出場を果たしました。

1999年Wユースでは「黄金世代」の一員として小野や高原らと共に活躍。負傷の稲本に代わり全7試合出場、決勝トーナメントのポルトガル戦でPKを決めて準優勝になりました。
シドニー五輪や2002年W杯は逃しましたが、ジーコ監督2試合目の2002年11月20日アルゼンチン戦でフル代表デビュー。翌年のコンフェデ杯で3試合、東アジア選手権と代表に定着します。2004年アジア杯にも5試合出場して連覇しました(決勝は出場停止)。
2006年W杯予選は5試合に出場。しかし中田英や中村、小笠原の存在で控えに回る事が多く、本大会でもフィールドプレーヤーで唯一出場機会がありませんでした。
その後オシム監督の下、2007年6月1日モンテネグロ戦では出場しないGK川口の代わりに初めてキャプテンを務めます。アジア杯ではベトナム戦で点を取りますが、準決勝で韓国にPK負けを喫しました。その後の岡田体制では長谷部と共に中盤を安定させ、2010年W杯予選では12試合に出場、2本のPKを含む3得点を挙げました。本大会でも4試合プレーし、デンマーク戦では本田に続いてFKを成功させて日本を2度目のベスト16に導きました。
2011年アジア杯でも全6試合にスタメン出場し、自身2度目の優勝を果たします。翌年のフランスとの親善試合ではDF井原の最多出場記録を塗り替えました。
2013年コンフェデ杯は3試合戦うも相手が悪く全敗しました。2014年W杯予選は13試合に出場しますが、山口の台頭もありフル出場が減少しました。本大会では長谷部と前後半を分担する形で2試合途中出場しますが、劣勢を覆せませんでした。
2015年アジア杯は、パレスチナ戦でミドルを決めるなど4試合に出場しました。
代表記録

※:鹿児島県鹿児島市
2012年6月8日:新規アップ 2018年12月20日更新