ディディエ・ドログバ(Didier DROGBA)
フルネーム ディディエ・イヴェス・ドログバ・テビリー
国籍 コートジボワール  
出身地 ユブゴン
生年月日 1978・3・11
身長 188cm
体重 84kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2002・9・8
南アフリカ戦
代表背番号 11
W杯メンバー 06年 10年
14年
ニックネーム ティト
個人タイトル 03/04リーグアン年間最優秀選手
03/04リーグアンベストイレブン
03/04UEFAカップ得点王(6得点)
06,09アフリカ年間最優秀選手(CAF)
06/07,09/10プレミアリーグ得点王
06/07,09/10プレミアリーグベストイレブン(PFA)
07FIFAベストイレブン
07UEFAベストイレブン
チームタイトル 04/05,05/06,09/10,14/15プレミアリーグ
04/05,06/07,14/15イングランドリーグ・カップ
06/07,08/09,09/10,11/12FAカップ
11/12UEFAチャンピオンズ・リーグ
12/13トルコリーグ
13/14トルコカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
96/97 ルヴァロワ(フランス4部) 11
97/98 ル・マン(フランス5部)    
98/99 ル・マン(フランス2部) 21
99/00 ル・マン(フランス2部) 21 30
00/01 ル・マン(フランス2部) 21 11
01/02 ギャンガン(フランス) 11 11
02/03 ギャンガン(フランス) 11 34 17
03/04 マルセイユ(フランス) 11 35 18
04/05 チェルシー(イングランド) 15 26 10
05/06 チェルシー(イングランド) 15 29 12
06/07 チェルシー(イングランド) 11 36 20
07/08 チェルシー(イングランド) 11 19
08/09 チェルシー(イングランド) 11 24
09/10 チェルシー(イングランド) 11 32 29
10/11 チェルシー(イングランド) 11 36 12
11/12 チェルシー(イングランド) 11 24
12 上海申花(中国) 11 11
12/13 ガラタサライ(トルコ) 12 13
13/14 ガラタサライ(トルコ) 11 23
14/15 チェルシー(イングランド) 11 28
15 モントリオール・インパクト(アメリカ) 11 11 11
16 モントリオール・インパクト(アメリカ) 11 22 10
17 フェニックス・ライジング(アメリカ3部) 11 13
18 フェニックス・ライジング(アメリカ2部) 11
正確な両足にヘッド、FKと多彩なゴールパターンを持ち、高くて強いフィジカルでのポストやスペースへの飛び出し、冷静な判断で多くの決定機も作れるアフリカ史上屈指のCFです。
母国コートジボワールでは内戦を終結させる逸話を持つなど、俗に大統領よりも影響力のある人物とも言われるほどであり、文字通り英雄的存在です。

アビジャンの貧民街ユブゴン生まれ。5歳の時、内戦から逃れるためサッカー選手の叔父ミシェル・ゴバがいるフランスへ移ります。ダンケルクでは右SBとしてプレーしていました。
8歳で一度母国に戻るも経済状況の悪化により再び渡仏し、アベヴィルでストライカーに転向しました。13歳でブレトンにあるヴァンヌというクラブで手ごたえを掴み、ルヴァロワへ移籍しました。94/95シーズンから2シーズンで30ゴールを挙げて96/97シーズンにトップへ昇格し、フォンテーヌブロー戦でデビュー、そして即座にゴールを挙げてみせたのです。
98/99シーズンより、当時2部のル・マンでプレー。序盤はケガに悩まされ、夜遊びにいそしむ時期もありましたが、99/00シーズンにレギュラーとなりました。
01/02シーズン途中にギャンガンに移籍し、2002年1月30日メッツ戦でのリーグデビュー戦でゴールを挙げるなど1部残留に貢献すると、翌02/03シーズンより潜在能力が開花します。左WGマルダとペアを組んで共に攻撃をリードし、リヨンやPSGから1試合2ゴールを挙げて勝利に貢献するなど、モナコのノンダ、ボルドーのパウレタに次ぐシーズン17ゴールを挙げて降格寸前だったチームを7位に押し上げる原動力となったのです。
この活躍で脚光を浴び、リヨンやPSGなどトップクラブが獲得に動きましたが、マルセイユへ移籍します。自身より一足先に活躍していた同胞バカヨコ、エジプトのミド、フランスのマルレら層が厚かったものの、すぐに順応して前年を上回る18ゴールを挙げました。初出場したチャンピオンズ・リーグではグループリーグのR・マドリー戦でゴールを挙げ、パルチザン戦ではハットトリックを達成。ポルト戦でもゴールを挙げ、グループリーグ全てのチームからゴールを奪いました。3位になったためUEFA杯に回りましたが、インテルやリヴァプール、ニューカッスル戦での1試合2ゴールなど合計6ゴールで決勝進出に貢献し、フランス最優秀選手に選ばれました。
04/05シーズン、チャンピオンズ・リーグの活躍を目の当たりにしたモウリーニョ監督の熱望もあり、クラブ史上最高の48億円でチェルシーに引き抜かれます。そして同時に加入したチェフやR・カルヴァーリョ、既存のランパードとチームの根幹を支える存在となります。
開幕のマンチェスター・U戦でプレミアデビューし、C・パレス戦で初ゴールを記録。通算10ゴールでクラブを50年ぶりに優勝に導きます。チャンピオンズ・リーグでもバルサとの試合ではレッドを受けますが、PSG戦やバイエルンとの準々決勝で2ゴールを挙げてベスト4に進みました。翌年もリーグで2ケタゴール、最多の11アシストを記録して連覇に貢献しました。
06/07シーズンはW杯後でコンディションを落とす選手が目立つ中凄みが増し、チャンピオンズ・リーグではL・ソフィア戦でハットトリックし、バルセロナ戦でも2ゴールを記録。プレミアでもホームのワトフォード戦でハットトリックを決めるなど得点王になりました。
07/08シーズンはモウリーニョ監督の解任もありリーグこそ精彩を欠きますが、徐々に本来の調子を取り戻し、チャンピオンズ・リーグでは6ゴールを挙げてチームを初の決勝へ導きます。しかしヴィディッチに平手打ちをして退場処分を受け、チームもビッグイヤーを逃しました。
08/09シーズン、序盤はフェリペ監督との折り合いが悪かったものの、後任ヒディンク監督の下で復調、チャンピオンズ・リーグではユヴェントスやリヴァプールから2ゴール挙げました。
09/10シーズンは前年のうっ憤を晴らすかのようにゴールを量産、開幕のハル戦での2ゴールを皮切りに、アーセナルとの双方の試合で合計4ゴール、終盤のウィガン戦でハットトリックを達成するなど29ゴールを挙げて2度目の得点王になりました。FA杯でも決勝ポーツマス戦で決勝点を挙げ、国内2冠に多大なる貢献を果たしました。
10/11シーズンも開幕戦でハットトリックを決めますがマラリアに感染し、F・トーレスの加入もあり心身に苦しみました。翌シーズンはリーグ戦こそ5ゴールでしたが、チャンピオンズ・リーグではバルセロナとの準決勝1stレグやバイエルンとの決勝で大仕事を見せ、クラブに初のビッグイヤーをもたらしました。その後アネルカと中国で合流しますが、数ヶ月で退団しました。
12/13シーズンにガラタサライに移り、2月15日アキサル相手のトルコリーグデビュー戦であいさつ代わりのゴールを決めます。チャンピオンズ・リーグでもR・マドリー相手にゴールを挙げると、翌シーズンの同大会でもユヴェントスからゴールを奪ってチームの士気を高め、スナイデルと共にウミト・Bやブラク・YといったFW陣に好影響を与えました。
14/15シーズン、モウリーニョ監督の要望を受けてチェルシーに復帰。背番号は10年前に入団した時の15でしたが、周囲の計らいもあり開幕直前に11に変更します。ヂエゴ・コスタの控えを務め、マンチェスター・U戦のゴールなどでクラブ5年ぶりの優勝に貢献しました。
15シーズンにモントリオールへ。8月23日フィラデルフィア戦でMLSデビューし、シカゴ戦でハットトリックを達成。2年目も4試合連続弾やハットトリックなどで2ケタを達成しました。
フェニックスでも結果を残し、18シーズンを最後に引退しました。

2002年9月8日の南アフリカ戦でフル代表デビューします。2006年のアフリカ選手権では3ゴールを挙げてチームを決勝に導きました。
2006年W杯アフリカ予選はアデバヨールに次ぐ9ゴールで母国の初出場に貢献。本大会はグループリーグで終わりますが、アルゼンチン戦で母国初ゴールを挙げました。
2010年W杯予選は5試合だけでしたが、6ゴールと決定力を披露。日本との強化試合で闘莉王と接触し、本大会出場が危ぶまれた中で全3試合に出場、チームはポルトガルを含む激戦区で再びグループリーグで終わりましたが、自身はブラジルからゴールを奪いました。
2012年アフリカ選手権は6試合に出場、スーダンと赤道ギニアから3ゴールを奪いますが、ザンビアとの決勝では仕事ができませんでした。翌年の同大会でもアルジェリア戦で唯一のゴールを挙げますが、決勝でナイジェリアに敗れました。
2014年W杯予選も5試合戦い、2本のPK含む3ゴールを決めて出場権を得ます。本戦は日本に先制された後半からピッチに入り、2分後に同点、4分後に逆転ゴールを呼び込みました。しかしコロンビア戦ではCKで競り負けました。ギリシャとの3戦目は先発するも相手の堅守に仕事ができず、黄金世代として臨んだ最後のW杯もグループリーグで終わりました。
代表記録

余談
・「ティト」の愛称は母親が名づけたものであり、旧ユーゴスラヴィアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーにちなんでいます。
2014年6月15日:新規アップ 2018年12月1日更新