アルフレッド・ディ・ステファノ(Alfredo DI STEFANO)
フルネーム アルフレッド・ディ・ステファノ・ラウテ
国籍 アルゼンチン※  
出身地 ブエノスアイレス
生年月日 1926・7・4
身長 178cm
体重 76kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1947・12・4
ボリビア戦
代表背番号
W杯メンバー 62年
ニックネーム ブロンドの矢
個人タイトル 47アルゼンチンリーグ得点王
47,51南米ゴールデンブーツ
47,53南米年間最優秀選手
47CONMEBOLコパ・アメリカ最優秀選手
51,52コロンビアリーグ得点王
53/54,55/56,56/57,57/58,58/59
リーガエスパニョーラ得点王
57,59,60,64スペイン年間最優秀選手
57,59バロンドール(フランスフットボール誌)
57/58UEFAチャンピオンズ・カップ得点王(10得点)
チームタイトル 45,47アルゼンチンリーグ
47CONMEBOLコパ・アメリカ
49,51,52,53コロンビアリーグ
53/54,54/55,56/57,57/58,60/61,61/62,
62/63,63/64リーガエスパニョーラ
65/66,66/67,67/68,68/69,69/70
UEFAチャンピオンズ・カップ
60FIFAインターコンティネンタル・カップ
61/62コパ・デル・ヘネラリシモ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
43 リーベル・プレート    
44 リーベル・プレート    
45 リーベル・プレート
46 ウラカン 25 10
47 リーベル・プレート 30 27
48 リーベル・プレート 23 13
49 リーベル・プレート 12
49 ミジョナリオス(コロンビア) 15 15
50 ミジョナリオス(コロンビア) 29 23
51 ミジョナリオス(コロンビア) 34 31
52 ミジョナリオス(コロンビア) 24 19
53/54 レアル・マドリー(スペイン) 28 29
54/55 レアル・マドリー(スペイン) 30 26
55/56 レアル・マドリー(スペイン) 30 24
56/57 レアル・マドリー(スペイン) 30 31
57/58 レアル・マドリー(スペイン) 30 19
58/59 レアル・マドリー(スペイン) 28 23
59/60 レアル・マドリー(スペイン) 23 12
60/61 レアル・マドリー(スペイン) 23 21
61/62 レアル・マドリー(スペイン) 23 11
62/63 レアル・マドリー(スペイン) 13 12
63/64 レアル・マドリー(スペイン) 24 11
64/65 エスパニョール(スペイン) 24
65/66 エスパニョール(スペイン) 23
1956年からR・マドリーをチャンピオンズ杯5連覇に導いた、サッカー史に残るアルゼンチン生まれのスタープレーヤーです。基本的にはCFで左右両足やヘッドとあらゆる形でゴールを量産しますが、「ブロンドの矢」と称されるスピードと卓越したテクニックを軸に緩急自在のドリブルや敵の急所を突くパス出しもでき、攻撃面で圧倒的な存在感を放ちます。
無尽蔵のスタミナも持ち合わせ、相手陣内深くに攻め込んだ後猛烈な勢いで自陣に戻って守備に回るオールラウンドな活躍を披露、後のオランダ代表やアヤックスによる「トータル・フットボール」を先に実践していたと捉える向きもあります。

イタリア移民の子として、首都ブエノスアイレス郊外にあるバラカスという小さな村に生まれます。父親はプロサッカー選手でしたが生活は苦しく、農場での過酷な労働を強いられますが、この経験が強靱な肉体と精神力、驚異的なスタミナを育む事となります。
地元のイマーン・ブエノスアイレスを経て、1943年、13歳で名門リーベルに加入。17歳の時、1945年7月15日ウラカン戦にて右WGとしてプロデビューします。翌年にウラカンにレンタルされCFに転向して才能が開花、1年でリーベルへ復帰します。モレノ、ラブルナ、ペデルネラ、ムニオス、ロウスタウらと共に「ラ・マキナ=ザ・マシーン」と呼ばれた圧倒的な攻撃力を持つクラブ史上に残るチームの一員として47シーズンを制覇し、自身は得点王を獲得しました。
しかし第2次大戦の影響で国勢は乱れ、選手への報酬が支払われなかったため、選手による大規模なストライキが起こります。これによりFIFAがアルゼンチン国内で選手がプレーすることを禁止したため、多くの選手がコロンビアで始まった非公式のリーグに参加、自身もボゴタのミジョナリオスに移籍します。ここでは4シーズンを過ごし、リーベル時代の同僚ペデルネラらと共にリーグ、カップ戦など全てを合わせて292試合に出場、267ゴールを記録し、49年、51年、52年、53年のリーグ優勝と51年、52年での得点王と数々のタイトルを手にしました。
1953年にミジョナリオスがヨーロッパ遠征を行った際、R・マドリーのオファーを受けます。ライバルのバルセロナも獲得を狙っていたため激しい争奪戦が展開されます。スペイン協会が調停に入り、両クラブが自身の保有権を得て、1年ごとに両クラブでプレーすることとしました。
1年目にR・マドリーでプレーすることになり、9月27日ラシン戦でリーガデビュー(バルセロナでプレーすることはなく、このことにより両クラブの間に因縁が生まれたとも言われています)。以降R・マドリー黄金期の中心選手として君臨。コパ、ヘント、プスカシュと世界的名手の加入にも絶対的な立場は揺るがず、リーガ優勝8回、得点王5回、チャンピオンズ杯では大会が始まった55/56シーズンから5連覇を達成、決勝ではすべてゴールを挙げ、5度目の決勝フランクフルト戦ではハットトリックを達成しました。また、チャンピオンズ・リーグでは58試合で49ゴールを挙げ、2005年にラウール、シェフチェンコ、2006年にファン・ニステルローイに更新されるまでの最多記録でもあり、バロンドールにも2度選出されるなど(初年度はマシューズに次いで2位の得票)、比類なき働きを見せました。
1964年にエスパニョールに移り、2年後に40歳で栄光に彩られた現役生活を終えます。その後は監督としてボカやリーベル、古巣R・マドリー、バレンシアで指揮を執りました。
2000年にR・マドリーの名誉会長に就任、2014年7月7日に88歳で亡くなりました。

1947年12月4日、コパ・アメリカのボリビア戦で代表デビュー。この大会で全6試合で6ゴールを挙げてチームを優勝に導きます。しかし母国のストライキによりFIFAに加入していないコロンビアに渡り、クラブでの活躍から協会より代表入りを要請されて4試合プレーしました。
1956年にはスペイン国籍を取得し、翌年1月30日オランダ戦でデビュー。W杯予選は1958年大会と1962年大会で計8試合5ゴールと結果を残して後者のメンバーに入ったものの、直前に肉離れを起こしたためプレーすることはありませんでした。
代表記録 6試合6得点
スペイン代表デビュー 1957・1・30オランダ戦 スペイン代表記録 31試合23得点
コロンビア代表記録 4試合
※:スペイン、コロンビア国籍もあり
2014年7月9日:新規アップ

79/80バレンシア
ケンペス パブロ
  スビラッツ  
サウラ ソルソナ
  ボンホフ  
ボトゥボ カレテ
テンディーリョ アリアス
  ペレイラ  

81リーベル・プレート
J・M・ビエタ ディアス
  ケンペス  
コミッソ ブジェリ
  ガジェゴ  
オラルティコエチェア サボリティ
パサレラ タランティーニ
  フィジョール  

83/84レアル・マドリー
フアニート サンティジャーナ
M・バスケス アンヘル
ガジェゴ シュティーリケ
カマーチョ チェンド
ボネト サンチス
  M・アンヘル