アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro DEL PIERO)
フルネーム アレッサンドロ・デル・ピエロ
国籍 イタリア
出身地 カネリアーノ
生年月日 1974・11・9
身長 173cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1995・3・25
エストニア戦
代表背番号 7 10 14
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム アレックス
個人タイトル 96U−21欧州年間最優秀選手
96FIFAインターコンティネンタル・カップ最優秀選手
97/98UEFAチャンピオンズ・リーグ得点王(10得点)
98セリエA年間最優秀選手
07/08セリエA得点王
チームタイトル 94,96U−21UEFA欧州選手権
94/95,96/97,97/98,01/02,02/03,11/12セリエA
94/95コッパ・イタリア
95/96UEFAチャンピオンズ・リーグ
96FIFAインターコンティネンタル・カップ
06FIFAワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91/92 パドヴァ(2部)
92/93 パドヴァ(2部) 10
93/94 ユヴェントス 11
94/95 ユヴェントス 29
95/96 ユヴェントス 10 29
96/97 ユヴェントス 10 22
97/98 ユヴェントス 10 32 21
98/99 ユヴェントス 10
99/00 ユヴェントス 10 34
00/01 ユヴェントス 10 25
01/02 ユヴェントス 10 32 16
02/03 ユヴェントス 10 24 16
03/04 ユヴェントス 10 22
04/05 ユヴェントス 10 30 14
05/06 ユヴェントス 10 33 12
06/07 ユヴェントス(2部) 10 35 20
07/08 ユヴェントス 10 37 21
08/09 ユヴェントス 10 31 13
09/10 ユヴェントス 10 23
10/11 ユヴェントス 10 33
11/12 ユヴェントス 10 23
12/13 シドニーFC(オーストラリア) 10 24 14
13/14 シドニーFC(オーストラリア) 10 24 10
14/15 デリー・ディナモス(インド) 10 10
華麗なテクニックとアクロバティックなシュート、正確で多彩なFKで観る者をうならせるイタリアを代表するファンタジスタ。俗に「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれるペナルティエリアの左隅からゴール右上のコーナーを狙うシュートを得意とします。

7歳でサン・ヴェンデミアーノという地元クラブに入り、GKとしてプレーしていましたが、前線にコンバートされて頭角を現します。13歳でパドヴァに入団すると、91/92シーズンのセリエBでプロデビューし、翌1992年11月22日テルナーナ戦でプロ初得点をマークします。
1993年にユヴェントスへ移り、9月12日フォッジャ戦でセリエAデビューします。翌シーズンはR・バッジョの離脱により出場機会を増やしてスクデット獲得に貢献。クラブは彼の放出を決断し、弱冠二十歳の自身を軸にしたチーム作りを進めることとなったのです。
翌シーズンはラヴァネッリ、ヴィアッリの2トップとトライアングルを組み、チャンピオンズ・リーグではR・マドリーのラウール、パナシナイコスのヴァジーハと共にアヤックスのリトマネンに次ぐ6得点を挙げビッグイヤーを獲得します。1996年インターコンティネンタル杯ではリーベル相手に決勝点を挙げてクラブに11年ぶりのタイトルをもたらし、MVPに選出されました。
96/97シーズンよりスクデット2連覇、97/98シーズンにはジダンとの連携も深まり、インザーギと2トップを組んで21得点を挙げました。チャンピオンズ・リーグでも2年連続で決勝へ進み、96/97シーズンのドルトムントとの試合では左足のヒールを決めますが及ばず、97/98シーズンは10得点で得点王になりますが、決勝でR・マドリーに完封負けを喫しました。
1998年11月8日のウディネーゼ戦で左ヒザのじん帯を断裂します。9ヶ月後に戦列に復帰しますが、以前ほどの活躍を見せることができませんでした。
2001年2月には父親が他界し、迎えた01/02シーズンにジダンがチームを去ります。しかし新たに加入したネドヴェドの献身もあり、得点王になったトレゼゲの24得点に次ぐチーム2位の16得点と復活を遂げ、翌シーズンもローマ戦はじめ4度の1試合2得点など16得点でスクデット連覇に大きく貢献。自身4度目のチャンピオンズ・リーグ決勝ではライバルのミランにPK戦の末敗れました。翌03/04シーズンの本拠シエナ戦ではハットトリックを達成しています。
04/05シーズンに14得点を挙げ、05/06シーズンにはイブラヒモヴィッチの加入によりベンチスタートが多くなりましたが、それでもシーズン2ケタ得点を挙げてスクデット2連覇に貢献します。2006年1月10日の国内カップ、フィオレンティーナ戦でハットトリックを決め、ボニペルティの持つクラブ歴代最多182得点を更新しました。
シーズン終了後、「カルチョ・スキャンダル」で2シーズンのリーグタイトルが剥奪され、ペナルティとしてB降格が決定します。しかし即座にクラブに残ることを表明し、GKブッフォン、MFネドヴェド、FWトレゼゲなどの残留を促します。そして14年ぶりに臨んだセリエBでは2006年10月28日フロジノーネ戦でユヴェントスでの200得点目をマーク。2007年1月20日バーリ戦でクラブ歴代3人目のユヴェントス通算500試合出場を達成するなど節目の記録を積み上げ、プレーでも格の違いを見せつけて20得点で得点王に輝き、チームを1年でA復帰に導きます。
翌シーズンの2008年4月6日パレルモ戦では、通算552試合というDFシレアの記録を塗り替えると、4月20日アタランタ戦でハットトリックや、ラツィオやパレルモからなどから4度の1試合2得点と通算21得点を挙げ、33歳にして初めてセリエAの得点王になりました。
08/09シーズンのチャンピオンズ・リーグでは、予備予選アルトメディア戦で1点を挙げると、グループリーグのR・マドリー戦では2試合で3得点を挙げて最多優勝クラブを粉砕し、決勝トーナメントのチェルシー戦でも敗れはしましたが、一矢報いました。国内でもミランやローマとのホームゲームで点を取って勝利に貢献しました。
09/10シーズンは一ケタ台に終わりましたが、国内カップのナポリ戦含め1試合2得点を3度マーク。翌シーズンはヨーロッパリーグで3点、国内リーグでもミラン戦で追加点を取り、アウェーでの勝ち点3を獲得しました。10/11シーズンはミランとのアウェー戦でセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替えるなど8得点を挙げました。翌シーズンはコンテ監督の下、インテル、ラツィオ、最終節アタランタ戦で決定力を見せ、19年のキャリアをスクデットで締めました。
12/13シーズンにシドニーFCへ移籍します。10月5日ウェリントン戦でAリーグデビューして2試合目から3試合連続でネットを揺らし、ホームのウェリントン戦では4ゴールを挙げました。翌シーズンも2ケタ得点と結果を残しますが、終了後に退団しました。
14/15シーズンのインドでのプレーを最後に現役を終えています。

ユースでは2度も欧州制覇を果たし、1991年のU−17世界選手権では3試合1得点を挙げましたが、2分1敗でグループリーグ敗退となりました。
フル代表デビューは1995年3月25日エストニア戦となります。翌年の欧州選手権ではケガで満足にプレーできないまま終わりました。1998年W杯も4試合に出場しますが、チャンピオンズ・リーグ決勝での負傷が響いて無得点に終わりました。
2000年欧州選手権予選ではホームのスイス戦で2得点、本大会でもスウェーデン戦で1得点を挙げるも、決勝フランス戦ではチャンスをものにできず延長戦で敗れて戦犯となりました。
2002年W杯予選では8試合5得点と役割を果たし、本大会でもメキシコ戦で途中出場して同点弾を決め、チームをグループリーグ敗退の危機から救いました。
2004年欧州選手権予選でも5得点を決めて3度目の出場を決めますが、本大会では無得点に終わり、チームもグループリーグで敗退しました。
2006年W杯予選は2試合の出場にとどまりますが、本大会にエントリーされて5試合プレー。開催国ドイツとの準決勝では追加点を奪って24年ぶりの優勝に貢献しました。
2008年欧州選手権予選ではドナドーニ監督の構想に入っていませんでしたが、クラブでの活躍により5試合に出場。本大会でも3試合戦いましたが、グループリーグで敗退しました。
代表記録 91試合26得点

余談
・プラティニやR・バッジョが背負ったユヴェントスの背番号10の後継者であり、同クラブを象徴する存在であると同時に、最多出場、最多得点記録保持者でもあります。
・クラブのオーナーだったジャンニ・アニエッリに芸術的なプレーぶりを評価され、ルネッサンスの画家にちなみ「ピントゥリッキオ」というニックネームを付けられたこともあります。
2011年3月31日:新規アップ 2015年6月25日更新