ロナルド・デ・ブール(Ronald DE BOER)
フルネーム ロナルタス・デ・ブール
国籍 オランダ
出身地 ホールン
生年月日 1970・5・15
身長 180cm
体重 75kg
利き足
ポジション MF(RMF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 1993・3・24
サンマリノ戦
代表背番号 6 7 9 16
W杯メンバー 94年 98年
ニックネーム  
個人タイトル 94,96オランダ年間最優秀選手
チームタイトル
92/93,97/98オランダカップ
94/95UEFAチャンピオンズ・リーグ
95FIFAインターコンティネンタル・カップ
98/99リーガ・エスパニョーラ
01/02,02/03スコットランドカップ
01/02,02/03スコットランドリーグ・カップ
02/03スコットランドリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
87/88 アヤックス
88/89 アヤックス 17
89/90 アヤックス 20
90/91 アヤックス 14
91/92 トゥエンテ 33 11
92/93 トゥエンテ 16 11
92/93 アヤックス 15
93/94 アヤックス 28
94/95 アヤックス 25
95/96 アヤックス 30
96/97 アヤックス 28
97/98 アヤックス 31
98/99 アヤックス 15
98/99 バルセロナ(スペイン) 13
99/00 バルセロナ(スペイン) 20
00/01 レンジャーズ(スコットランド) 26
01/02 レンジャーズ(スコットランド) 24
02/03 レンジャーズ(スコットランド) 14 33 16
03/04 レンジャーズ(スコットランド) 14 16
04/05 アル・ラーヤン(カタール) 22
05/06 アル・シャマル(カタール)    
06/07 アル・シャマル(カタール)    
07/08 アル・シャマル(カタール)    
本来は右のMFですが、CF、WG、SBと複数のポジションを高いレベルでこなすオランダを代表するユーティリティプレーヤー。得点力、アシスト能力ともに一級品の実力を持ち、双子の兄フランクと共に長年第一線で活躍しました。

アヤックスのユースシステムにてフランクと共に成長し、1987年11月22日ズヴォレ戦でデビューを果たします。最初の4年間はバックアッパーの域を出ず、トゥエンテへレンタルに出されますが、これが奏功して2年間で49試合22得点の成績を残しました。
レンタルバック後はアヤックスでもポジションを確保し、1年目に国内カップ、国内スーパー杯3連覇、2年目からの国内リーグ3連覇、3年目にはチャンピオンズ・リーグ、インターコンティネンタル杯とクラブ黄金期の一員となり、2度のオランダ年間最優秀選手に輝きました。
98/99シーズン途中に恩師ファン・ハール率いるバルセロナへ移りますが、所属元のアヤックスと衝突し、わだかまりを残したままオランダを後にします。そしてリーグ優勝を経験しますが、L・エンリケの存在により、ほとんど出場機会を得ることができませんでした。その後00/01シーズンに就任したセラ・フェレール監督との確執により、レンジャーズへ移籍します。
アドフォカートの意思をピッチで体現する中心となり、監督である彼を含め、ファン・ブロンクホルスト、コンターマン、ニューマン、リックセンといった同胞の存在によりスムーズにチームになじみます。また、デンマーク代表ローヴェンクランズ、グルジア代表アルヴェラーゼ、スペイン人のアルテタら他国の名手とも抜群の連携を見せ、2年目に国内カップとリーグ杯の2冠、3年目にはリーグで33試合16得点で優勝に貢献し、国内カップ、リーグ杯と3冠を達成しました。
03/04シーズン終了後に兄と共にカタールへ活躍の場を移し、4年目に首の負傷を理由に37歳で引退を表明しました。

1993年3月24日サンマリノ戦で代表デビューを飾り、翌年のW杯予選に2試合出場。本戦でも3試合プレーし、ベスト8進出に貢献します。
1996年欧州選手権では大分でもプレーするリシャルト・ヴィチュヘと共にベルカンプの背後をカバーするなど4試合に出場しますが、チーム内に内紛が勃発、その発端となった同僚ダーヴィッツが強制帰国の処分を受けるなど影響は大きく、ベスト8に終わりました。
1998年W杯予選では6試合戦い2大会連続で出場します。本戦では右MFとして韓国とメキシコから得点を奪い、準決勝ブラジル戦ではクライファートの同点弾をアシストするなど能力を存分に発揮しましたが、その後のPK戦をミスして敗れました。
2000年欧州選手権では主にサブとしての出場となりますが、初戦チェコ戦で試合終了間際にPKを決めてチームに勢いをもたらしました。その後準決勝でイタリアに敗れました。
2002年W杯予選で敗退した長いブランクの後、2004年欧州選手権予選で代表復帰を果たすものの、出場を果たした兄に反して本大会へのエントリーはなりませんでした。
代表記録 67試合13得点
※:89/90,93/94,94/95,95/96,97/98エールディヴィジ
2009年12月2日:新規アップ 2013年9月11日更新