ヨハン・クライフ(Johan CRUIJFF)
フルネーム ヘンドリク・ヨハネス・クライフ
国籍 オランダ  
出身地 アムステルダム
生年月日 1947・4・25
身長 176cm
体重 67kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1966・9・7
ハンガリー戦
代表背番号 9 14
W杯メンバー 74年
ニックネーム フライング・ダッチマン
個人タイトル 66/67,71/72エールディヴィジ得点王
71,73,74バロンドール(フランスフットボール誌)
74FIFAワールドカップ最優秀選手
チームタイトル 65/66〜67/68,69/70,71/72,72/73,
81/82,82/83エールディヴィジ
66/67,69/70〜71/72,82/83オランダカップ
70/71〜72/73UEFAチャンピオンズ・カップ
72FIFAインターコンティネンタル・カップ
73/74リーガ・エスパニョーラ
77/78コパ・デル・レイ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
64/65 アヤックス 10
65/66 アヤックス 19 16
66/67 アヤックス 30 33
67/68 アヤックス 33 25
68/69 アヤックス 29 24
69/70 アヤックス 33 23
70/71 アヤックス 25 21
71/72 アヤックス 32 25
72/73 アヤックス 26 16
73/74 アヤックス
73/74 バルセロナ(スペイン) 26 16
74/75 バルセロナ(スペイン) 30
75/76 バルセロナ(スペイン) 29
76/77 バルセロナ(スペイン) 30 14
77/78 バルセロナ(スペイン) 28
79 ロサンザルス・アズティックス(アメリカ) 27 14
80 ワシントン・ディプロマッツ(アメリカ) 27 10
80/81 レバンテ(スペイン2部) 10
81 ワシントン・ディプロマッツ(アメリカ)
81/82 アヤックス 15
82/83 アヤックス 21
83/84 フェイエノールト 33 11
オランダが生んだサッカー史最高のプレーヤーの一人。きゃしゃな体格ですが、軸足の後ろにボールを通す「クライフ・ターン」に代表されるテクニックとスピードに恵まれ、ゲームメークからフィニッシュを高いレベルでこなします。本来攻撃的なポジションを務めますが、試合中はピッチのいたるところに顔を出し、その都度効果的なプレーを見せます。
アヤックス、バルセロナ、オランダ代表でミケルス監督が提唱する「トータル・フットボール」を具現化した筆頭の存在であり、それだけの戦術眼と統率力も持ち合わせています。

アムステルダム郊外ヘームステーデにて、青果店の家に生まれます。ストリートで技を磨いた後10歳の誕生日にアヤックスの下部組織に入団します。12歳の時に父親を亡くし、翌年に学校をやめてサッカーに専念します。母親はクラブの掃除婦として働いていました。
1964年11月15日フローニンヘン戦でトップデビューを果たすと、2年目にはその才能が開花、3年目にはリーグ得点王に輝きました。68/69シーズンはミランの前にビッグイヤーを逃しましたが、代表の僚友でもあるニースケンス、クロル、カイザーらと共に6度のリーグ優勝、4度の国内カップ、チャンピオンズ杯3連覇(2度目の決勝インテル戦で2得点)とクラブ史上最高の黄金期をもたらし、1971、73年のバロンド−ルに選出されます。翌1974年もW杯の活躍が評価され、プラティニとファン・バステンに先立ち史上初の3度目の戴冠となりました。
73/74シーズン途中にバルセロナへ移籍します。ここでもミケルス監督の下、ニースケンスやレシャック、ペルー代表ソティルらと共に26戦無敗の立役者となります。ライバルのR・マドリーを5−0で粉砕し、A・マドリー戦ではバックヒールによる得点を挙げるなどの活躍で、クラブ14年ぶりのリーグ優勝に貢献します。また、国内カップも獲得しました。
1978年に一度引退を発表しますが、翌年5月に北米リーグで現役復帰します。スペインへのレンタルを除き、2年半にわたって新興リーグの発展に力を尽くしました。
81/82シーズンに母国へ復帰し、2年目に国内2冠に貢献。83/84シーズンのフェイエノールトでも衰え知らずのプレーを見せて1983年、84年の国内最優秀選手に選ばれました。
引退後は指導者として古巣アヤックスからキャリアを始め、ファン・バステンらを擁して86/87シーズンのカップウィナーズ杯を制覇します。その後バルセロナへ招聘され、グアルディオラ、ロマーリオ、ストイチコフ、R・クーマン、M・ラウドルップら「ドリーム・チーム」を率いてリーグを4連覇し、クラブに初のビッグイヤーをもたらすなど、現役時代と同様の栄光を掴みました。
現場から離れた1996年以降も絶大な影響力を持っていましたが、2015年に肺がんを公表。翌年3月24日、バルセロナにて68歳で亡くなりました。

代表デビューは1966年9月7日ハンガリー戦。2試合目のチェコ・スロヴァキア戦で退場処分を受けると、オランダ協会からも1年間の出場停止処分を受けました。
1974年W杯ではアルゼンチンから2得点を奪い、ブラジル戦でもボレーを決めてチームを決勝に導きましたが、フォクツのマンマークの前に決定機に絡めず西ドイツに敗れました。しかしセンセーショナルな戦いが評価され、大会MVPに輝きました。
9番を着けた1976年欧州選手権では無得点に終わり、チェコ・スロヴァキアに準決勝で敗れました。1977年10月26日のベルギー戦を最後に引退しました。
代表記録 48試合33得点

余談
・1974年W杯、ミケルス監督はアルファベット順に背番号を割り振ります。イニシャルがAとBの選手がおらず自身が1番になるはずでしたが、例外として14番が認められました。そのため14番になるはずのニースケンスが13番になりました。また、ユニフォームのサプライヤーであるアディダスの両袖の3ラインを2ラインにして試合に臨みました。
・1970年10月30日PSV戦で初めて14番を着けます。当時はそけい部を痛め、本来の9番がG・ミューレンだったため14番を着けざるを得なかったものの、この試合を制して以来ゲンを担いでそのまま着用し、ペレの10番やディ・ステファノの9番に並ぶ価値を作りました。
2016年3月25日:新規アップ