デットマール・クラマー(Dettmar CRAMER)
フルネーム デットマール・クラマー
国籍 ドイツ  
出身地 ドルトムント
生年月日 1925・4・4
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1964〜64 日本代表コーチ
1971〜74 エジプト代表
1974〜74 アメリカ代表
1974〜74 ヘルタ・ベルリン
1975〜77 バイエルン
1977〜78 フランクフルト
1978〜81 アル・イテハド(サウジアラビア)
1981〜82 アリス・サロニカ(ギリシャ)
1982〜85 レヴァークーゼン
1991〜92 マレーシア代表
1997〜97 U−23韓国代表
1997〜97 タイ代表
獲得タイトル 74/75,75/76UEFAチャンピオンズ・カップ
プレーヤーとしては地元ドルトムントにあるヴィクトリアなどに在籍、ヘルベルガー監督に師事しましたが、ケガのため早々に現役に見切りをつけました。

基礎的な技術や練習計画などの強化策やコーチ学など日本代表のレベルアップに貢献、「日本サッカーの父」と言われています。24歳の若さでドイツ協会の西部地区コーチ、39歳でドイツ協会ナショナルコーチ、42歳から7年間、FIFAのコーチとなって70ヶ国を歴訪しました。

ドルトムントに生まれます。11歳の時、ベルリン五輪で日本がスウェーデンに逆転勝ちしたことが、日本に興味を持つきっかけとなります。
東京五輪に向けての強化が至上命題だった日本協会は、1960年3月に野津謙会長が渡独して日本サッカーの指導を依頼します。また、ローマ五輪の直後に日本代表が自らがコーチを務めるデュイスブルクのスポーツシューレに来たことで関係が始まります。
そしてドイツ協会会長で恩師でもあるヘルベルガーの要請に応じ、10月29日に36歳で初来日します。11月6日には代行としてチリW杯予選韓国戦で采配を振るいますが、敗れました。竹腰重丸技術委員長とも会談し、日本人特有の敏捷性を活かすため、テクニックの底上げを図ります。全国各地で講習会を開催して指導者に強い影響を与え、翌年4月から日本代表を指導、模範と独特の話術でリフティングもままならない選手の心を取り込みました。
1年余りが経ってチーム力の向上を機に高橋英辰監督から30代前半の長沼監督、岡野コーチに世代交代しました。1963年8月のムルデカ大会では4勝1分、得失点差で2位になると、秋にはアマチュアチームとはいえ西ドイツにも勝利するなど着実に実績を作りました。1964年の春期トレーニングや欧州遠征を経て臨んだ東京五輪ではベスト8に進出、駒沢公園は歓喜に沸きます。アルゼンチンとの初戦で3−2で勝ったことが大きく、サッカー人気を呼びました。
この成功を受けてさらなるレベルアップのために、欧州遠征やコーチの育成、リーグの立ち上げ、芝のグラウンドの確保を提言。1965年に発足した日本リーグはこの提言に基づくものとなりました。日本代表は釜本や杉山を中心にメキシコ五輪で銅メダルを獲得、自身はその後も日本でFIFA最初のコーチングコースを開催するなど、指導者育成の組織作りにも寄与しました。
74/75シーズン、解任されたラテック監督の後任としてバイエルンに就任します。チャンピオンズ杯では2回戦で東ドイツのマグデブルクと対戦、1stレグは2点のビハインドからG・ミュラーがハットトリックを達成して逆転勝ちすると、2ndレグでもミュラーが2得点を決めました。準々決勝でソ連のアララト・エレバン、準決勝でサンテティエンヌを完封して決勝に進みます。そしてバルサを破ったリーズと対戦、試合はバイエルン寄りのジャッジが多く、2−0でのビッグイヤーを獲得するものの、リーズのサポーターが暴動を起こすなど後味の悪い結果となりました。翌シーズンは国内リーグでハインケスらを擁するボルシアMGに1−4と大敗し、エースのミュラーがケガで離脱するなど厳しい状況でしたが、チャンピオンズ杯ではルクセンブルクのジュネス・デシュ、マルメ、ベンフィカを破りました。R・マドリーとの準決勝には戦列に戻ったミュラーが得点を決めました。サンテティエンヌとの決勝では後半にロートが決勝点を挙げ、ラテック前監督時代含めて欧州3連覇を達成しました。
4年ぶりの国内での采配となったレヴァークーゼンは3年間務めます。H・ワーズやチャ・ボンクンといったFWを擁していたものの、2度の2ケタ順位と苦しみました。
2005年には日本サッカー殿堂に入り、講演を中心に普及活動を継続していましたが、2015年9月17日に90歳で亡くなりました。

余談
・チャンピオンズ杯制覇を受けての記者会見で、監督にとって最高の勝利では、と質問されたのに対し、「日本が銅メダルを獲得したメキシコ五輪の勝利が私にとって最高である」と答えています。バイエルンはベッケンバウアー、G・ミュラー、マイヤーなど1974年W杯優勝メンバーを6人抱えていました。一方、大会でアウトサイダーだった日本がナイジェリア、ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコと強豪を打ち負かし、表彰式を終えて宿舎に戻ると、選手の一人や二人だけでなく全員がベッドに倒れこんでしまったのを見て、チーム全体がベストを尽くしたことへの賛辞となりました。

2015年9月19日:新規アップ 2015年9月22日更新

60日本代表(11月6日韓国戦)
渡辺正 佐々木泰治
八重樫茂生 川淵三郎
内野正雄 川西武彦
小沢通宏 平木隆三
宮本征勝 高森泰男
  保坂司  

64日本代表(東京五輪ベスト8)
  小城得達  
宮本輝紀 釜本邦茂
杉山隆一 川淵三郎
鈴木良三 八重樫茂生
山口芳忠 片山洋
  鎌田光夫  
  横山謙三  

68日本代表(メキシコ五輪銅メダル)
  釜本邦茂  
杉山隆一 松本育夫
宮本輝紀 渡辺正
森孝慈 小城得達
山口芳忠 片山洋
  鎌田光夫  
  横山謙三  

74/75バイエルン(CC優勝)
G・ミュラー トルステンソン
カペルマン U・ヘーネス
アンデルソン ロート
ブライトナー デュルンベルガー
シュヴァルツェンベック ベッケンバウアー
  マイヤー  

75/76バイエルン(CC優勝)
G・ミュラー K・H・ルンメニゲ
ホルスマン ロート
U・ヘーネス デュルンベルガー
カペルマン ハンセン
シュヴァルツェンベック ベッケンバウアー
  マイヤー