エディンソン・カバーニ(Edinson CAVANI)
フルネーム エディンソン・ロベルト・カバーニ・ゴメス
国籍 ウルグアイ カバーニ
出身地 サルト
生年月日 1987・2・14
身長 184cm
体重 74kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2008・2・6
コロンビア戦
代表背番号 7 21
W杯メンバー 10年 14年
18年
ニックネーム エル・マタドール
個人タイトル 12/13セリエA得点王
16/17,17/18リーグアン得点王
チームタイトル 11CONMEBOLコパ・アメリカ
11/12コッパ・イタリア
13/14〜15/16,17/18,18/19リーグアン
14/15〜17/18フランスカップ
14/15〜17/18フランスリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
05/06 ダヌービオ
06/07 ダヌービオ 14
06/07 パレルモ(イタリア) 7
07/08 パレルモ(イタリア) 7 33
08/09 パレルモ(イタリア) 7 35 14
09/10 パレルモ(イタリア) 7 34 13
10/11 ナポリ(イタリア) 7 35 26
11/12 ナポリ(イタリア) 7 35 23
12/13 ナポリ(イタリア) 7 34 29
13/14 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 30 16
14/15 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 35 18
15/16 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 32 19
16/17 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 36 35
17/18 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 32 28
18/19 パリ・サンジェルマン(フランス) 9 21 18
19/20 パリ・サンジェルマン(フランス) 9     
モビリティにあふれ、前線のあらゆるポジションで起点となり、多彩な技術とスピードで相手を翻弄するウルグアイ屈指のストライカー。愛称エル・マタドール=闘牛士。

イタリアの家系にサルトという町に生まれますが、12歳で首都モンテビデオに引っ越します。そして地元の名門ダヌービオのユースに入団し、05/06シーズンにデビューします。
U−20代表での活躍によりミランやユヴェントスやミランといったビッグクラブの目を引きますが、最終的にはパレルモへの入団が決まりました。
2007年3月11日フィオレンティーナ戦でのセリエAデビューを、ファン・バステンが1988年欧州選手権で見せたようなボレーで飾り、続くサンプドリア戦と2連続ゴールを挙げます。
3年目はユヴェントスに引き抜かれたアマウリの穴を埋め、ローマ戦やアウェーのインテル戦でゴール、レッチェ戦での2ゴールなど、ミッコリと並ぶチーム最多タイの14ゴールを決めました。09/10シーズンはパストーレの加入もあり、2年連続で2ケタゴールを見せました。
そしてデニスとクアリアレッラが去ったナポリにレンタル移籍します。開幕から3節連続ゴールを挙げると、アウェーのローマ戦など4度の1試合2ゴール、さらにユヴェントス、サンプドリア、ラツィオと3度もハットトリックを達成するなど得点王のディ・ナターレに次ぐ26ゴールをマークし、英雄マラドーナが89/90シーズンに挙げた16ゴールを大幅に上回りました。これによりクラブ21年ぶりのチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得しました。ヨーロッパリーグでもユトレヒト戦でハットトリック、S・ブカレスト戦では2試合とも試合終了間際でゴールを挙げる勝負強さでグループリーグを突破するなど、ラベッシやハムシクと共に欧州屈指のユニットを形成します。
R・マドリーやチェルシーといった高額オファーを固辞してチームに残り、2年目の国内ではミラン相手にハットトリックを決めると、ウディネーゼやフィオレンティーナなど4度の1試合2ゴールを達成。国内カップではインテル戦や決勝ユヴェントス戦など5試合5ゴールでチーム優勝の立役者となりました。チャンピオンズ・リーグでもマンチェスター・C戦での3ゴールや、チェルシー相手の1stレグなど8試合5ゴールでチームをベスト16に導きました。
3年目は国内スーパー杯でゴールを挙げますがユヴェントスに屈しました。しかし古巣パレルモ相手のリーグ開幕戦でゴールを決めると、ローマの両雄やインテルといった難しい試合でハットトリックを達成するなどキャリア最多の29ゴールで得点王に輝き、マラドーナ退団後の22年でチーム最高のリーグ2位に大きく貢献。ヨーロッパリーグでもドニプロ戦での1試合4ゴールなど7試合7ゴールと破壊力を見せつけ、PSGに80億円超の巨額で引き抜かれます。
2013年8月9日モンペリエ戦でフランスリーグにデビュー。イブラヒモヴィッチ、ラベッシとの3トップで右サイドと不慣れな位置ながら16ゴールをマークします。チャンピオンズ・リーグでも8試合4ゴール、リーグ杯でもリヨン戦の1試合2ゴールと期待に応えました。2年目もギャンガン戦のハットトリックなど18ゴール、国内カップでは決勝オセール戦など4ゴール、リーグ杯も決勝バスティア戦など3ゴールで3冠に貢献。チャンピオンズ・リーグはグループリーグで5ゴールを決めますが、決勝トーナメント以降はチェルシー戦の1ゴールにとどまりました。
3年目はアジャクシオ戦でのハットトリックなど19ゴール、国内カップ決勝でもゴール、リーグ杯で3ゴールを挙げて3つのタイトルを防衛しました。チャンピオンズ・リーグはチェルシーとのR161stレグで勝ち越しゴールを挙げました。4年目はイブラが去ったため点取り屋として本領を発揮、カーン戦での4ゴールや8度の1試合2ゴールなど35ゴールで得点王になりました。チャンピオンズ・リーグでもC・ロナウドとメッシに次ぐ8ゴールを決めますが、R16にとどまりました。
5年目は国内リーグでは開幕戦から2度の1試合2発含む5連発、2試合開けて3度の1試合2発含む7連発など得点王を防衛、国内カップで3ゴール、リーグ杯でも決勝モナコ戦の2ゴールなど6ゴールで3冠を達成。新加入のネイマールとPKキッカーをめぐって衝突したものの収束し、さらにムバッペと組む3トップで爆発的な攻撃を披露しました。チャンピオンズ・リーグでもバイエルン戦など7ゴールを挙げますが、R・マドリーの前にまたもR16で終わりました。
6年目も開幕から3連発し、モナコとギャンガンにハットトリックを決めます。後者では2アシストも見せて9−0という圧勝の原動力になりました。7試合に出たチャンピオンズ・リーグではレッドスター相手の2ゴールと物足りない結果に終わっています。

2007年U−20南米選手権は9試合7ゴールで、ブラジルのパトらを抑え得点王となりチームを3位に導きます。同年のU−20W杯では2ゴールでベスト16になりました。
フル代表デビューは2008年2月6日コロンビア戦で、2年後のW杯予選では7試合のチャンスを得るものの、ノーゴールに終わりました。しかしセリエAでの活躍によって本大会メンバーに選ばれ、ドイツとの3位決定戦でゴールを決めました。
2011年コパ・アメリカでも15度目の優勝に役割を果たして初タイトルを手にします。ロンドン五輪ではスアレスと共にオーバーエージとしてメンバーに入りましたが、ノーゴールに終わってグループリーグ敗退の要因となります。2013年コンフェデ杯ではブラジルやイタリア相手に計3ゴールを挙げて役割を果たしましたが、優勝には手が届きませんでした。
2014年W杯予選は、チームで唯一プレーオフを含めた全18試合に出場、終盤はコロンビアやアルゼンチン、プレーオフでゴールを挙げました。本戦ではコスタリカ戦でのPKとイングランド戦でのスアレスへのクロスにとどまり、ゴール量産とはなりませんでした。
2015年コパ・アメリカは4試合出場。チリ戦では相手DFハラからの挑発に激昂して退場処分を受け、ノーゴールに終わりました。翌年も2試合で仕事ができずに終わりました。
2018年W杯予選は15試合に出て最多の10ゴールを挙げると、本大会でも開催国ロシアからダメ押し点、R16ポルトガル戦でもスアレスとの連携で2ゴールを挙げました。しかしその後負傷してフランスとの準々決勝でプレーできず、チームも敗れました。
2019年コパ・アメリカはチリ戦で決勝ゴールを挙げます。ペルーとのPK戦でもスアレスのミスに動じませんでしたが、相手がすべて成功させたため敗れました。
代表記録

2011年2月11日:新規アップ 2019年7月4日更新