アントニオ・カッサーノ(Antonio CASSANO)
フルネーム アントニオ・カッサーノ
国籍 イタリア
出身地 バーリ
生年月日 1982・7・12
身長 175cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2003・11・12
ポーランド戦
代表背番号 10 18
W杯メンバー 14年
ニックネーム ファンタントニオ
個人タイトル  
チームタイトル 06/07リーガ・エスパニョーラ
10/11セリエA
所属クラブおよび背番号 出場 得点
99/00 バーリ 18 21
00/01 バーリ 18 27
01/02 ローマ 18 22
02/03 ローマ 18 27
03/04 ローマ 18 33 14
04/05 ローマ 18 31
05/06 ローマ 18
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 19 12
06/07 レアル・マドリー(スペイン) 18
07/08 サンプドリア 99 22 10
08/09 サンプドリア 99 35 12
09/10 サンプドリア 99 32
10/11 サンプドリア 99
10/11 ミラン 99 17
11/12 ミラン 99 16
12/13 インテル 99 28
13/14 パルマ 99 33 12
14/15 パルマ 99 19
15/16 サンプドリア 99 24
16/17    
17/18 エラス・ヴェローナ    
抜群のスピードと卓越したテクニック、パスやゴールセンスに優れたファンタジスタ。気性が激しく歯に衣着せぬ物言いでトラブルが絶えませんが、才能に疑いの余地はありません。

イタリア代表がP・ロッシの活躍などでW杯を制した翌1982年7月12日、南部のバーリに生まれ育ちます。決して治安のよくない家の近くの路地裏で一日中ストリートサッカーに興じて才能を伸ばします。家庭を顧みない父親だったため母親と幼少時代を過ごし、ナポリでプレーしていたマラドーナにあこがれてプロを目指すべく練習を重ねました。
11歳のときにインテルの入団テストに合格しますが、家庭環境の都合で入団できず、12歳で地元バーリの下部組織に入ります。やがてトップチーム昇格を果たし、99/00シーズンの12月11日レッチェ戦にて弱冠17歳でセリエAデビューします。そして翌週のインテル戦で点を取り勝利に貢献、それ以来シーズンの残り全試合に出場して即戦力と認められました。
翌シーズンは所属チームが下部リーグに降格し、国内外から多くのオファーが舞い込みます。そして10代には破格の約33億円の移籍金でローマに移籍します。クラブの象徴であるトッティは憧れの選手であり、世界有数の実力を持つ彼とプレーすることで潜在能力が開花し、15得点を挙げます。2年目はユヴェントス、ラツィオ、インテル、ミランと強豪から点を奪い、トリノ戦での1試合2得点含め9得点を挙げます。また、チャンピオンズ・リーグでも8試合4得点と決定力を見せつけました。3年目はユヴェントスから1試合2得点を挙げ、本拠シエナ戦でハットトリックを達成するなどキャリア最多の14得点、UEFA杯でも6試合4得点と好成績を残しました。
05/06シーズンにカペッロ監督がユヴェントスへ去ります。自らもクラブと契約面で折り合いがつかなかったことから、98/99シーズンまで在籍したパヌッチ以来クラブ二人目のイタリア人としてR・マドリーに移籍。マドリード・ダービーで初にして唯一の得点を挙げました。
06/07シーズンに自身を熟知したカペッロ監督が就任。ジダンが引退し、ゲームメークやフィニッシュの役を期待されたものの、監督批判を行ったため干される格好となりました。結局ほとんどプレーできず、07/08シーズンにサンプドリアへレンタルに出されました。
序盤戦をケガで離脱しながらも4試合連続得点など4年ぶりの2ケタ得点と復調を遂げ、チームをUEFA杯に導きます。これにより完全移籍を勝ち取ると、翌シーズンは本来の姿を取り戻すだけでなく腕章もなじみ、リーグ屈指のファンタジスタに成長しました。
4年目もラツィオ、ユヴェントス、ナポリ、フィオレンティーナと要所で得点を挙げましたがクラブと衝突、インテルと引き分けるアシストを置き土産にミランへ移籍します。そして加入直後に2試合連続アシストと瞬く間に順応、ミラノダービーや直前まで在籍したサンプドリア戦でも得点を挙げるなどハイライトを次々と生み出し、スクデット奪還に貢献しました。翌11/12シーズンは古巣ローマ戦の後で心臓の病気により離脱しましたが、最終的には10アシストを挙げました。
12/13シーズン、パッツィーニとのトレードでインテルへ移籍します。ローマやサンプドリアといった古巣に加え、ナポリやユヴェントスといった上位相手にも決定的な仕事を見せて7得点9アシストと結果を残しますが、ケガ人が続出するチーム浮上のきっかけにはなりませんでした。
13/14シーズンにパルマへ。ミランやサンプドリアなど久々の2ケタ得点を決め、アマウリやパローロなどに6アシストと存在感を示し、チームをヨーロッパリーグ圏内に導きます。しかし翌シーズンはクラブが破産し、自身も途中で契約を解除しました。
15/16シーズンにサンプドリアに戻りますが、終了後からフリーになっています。

イタリアU−18代表当時、2000年にポルトガルで行われた大会ではMVPに輝きました。U−21に上がると、ジェンティーレ監督とトラブルを起こして代表から外されました。。
しかしクラブでは相変わらずの質の高いパフォーマンスを続けていたため、「イタリアの将来を担う選手である」と、フル代表のトラパットーニ監督から評価され代表に招集されました。そして2003年11月12日ポーランド戦でデビュー、敗れはしますが初得点をマークしました。
2004年の欧州選手権でも、他のFWがふるわない中2得点と一人気を吐きます。しかし2006年W杯予選では2試合の出場にとどまり、本大会行きもなりませんでした。
2008年欧州選手権予選も2試合のみの出場ながらメンバーに選ばれ4試合プレーします。しかし前回ほどのインパクトを残すことはできませんでした。
2010年W杯予選ではリッピ監督の構想に入りませんでしたが、プランデッリ監督により復帰。2012年欧州選手権予選では10試合6得点2アシストをマーク。本大会でも6試合に出場、アイルランド戦で先制点を決めると、ドイツ戦でもバロテッリの先制点をアシストするなど病み上がりとは思えないパフォーマンスを見せて母国を準優勝に導きました。
2014年W杯予選は招集されませんでしたが、クラブで結果を出して初出場を果たします。ベンチスタートで2試合戦いますが、決定機には至りませんでした。
代表記録

2006年1月5日:新規アップ 2017年7月11日更新