ジェイミー・キャラガー(Jamie CARRAGHER)
フルネーム ジェームズ・リー・ダンカン・キャラガー
国籍 イングランド
出身地 ブートル
生年月日 1978・1・28
身長 188cm
体重 81kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1999・4・28
ハンガリー戦
代表背番号 15 16 18
W杯メンバー 06年 10年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 00/01,05/06FAカップ
00/01,02/03,11/12イングランドリーグ・カップ
00/01UEFAカップ
04/05UEFAチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95/96 リヴァプール 23
96/97 リヴァプール 23
97/98 リヴァプール 23 20
98/99 リヴァプール 23 34
99/00 リヴァプール 23 36
00/01 リヴァプール 23 34
01/02 リヴァプール 23 33
02/03 リヴァプール 23 35
03/04 リヴァプール 23 22
04/05 リヴァプール 23 28
05/06 リヴァプール 23 36
06/07 リヴァプール 23 35
07/08 リヴァプール 23 35
08/09 リヴァプール 23 38
09/10 リヴァプール 23 37
10/11 リヴァプール 23 28
11/12 リヴァプール 23 21
12/13 リヴァプール 23 24
マンマークや強烈なタックル、長身での制空権と対人プレーに無類の強さを誇るストッパータイプのDF。最終ライン全てのポジションでプレーできる柔軟性も持ち合わせています。

リヴァプールの下部組織で育ち、95/96シーズンにはFAユース杯の優勝に貢献します。そしてオーウェンと共に96/97シーズンよりトップチームに昇格すると、リーグ杯ミドルスブラ戦でデビュー、その後のアストン・ヴィラ戦ではゴールを挙げました。
97/98シーズンから徐々に出場機会を得ると、その後はさまざまなポジションで起用され、プレーの幅が広がるきっかけとなりましたが、99/00シーズンより右SBに固定されました。
00/01シーズンには全コンペティションで59試合に出場し、カップ3冠(FA杯、リーグ杯、UEFA杯)達成に貢献。翌シーズンはチャンピオンズ・リーグに10試合出場してベスト8になりますが、翌02/03シーズンは6試合の出場で1次リーグにて敗退、UEFA杯で5試合戦い準々決勝に進みました。一方国内ではリーグ杯で5試合戦って2度目の優勝を果たしました。
03/04シーズンはフィナンの加入でCBにコンバートされ、ヒーピアやエンショズとコンビを組みます。9月のブラックバーン戦で足を骨折して4ヶ月の戦線離脱を余儀なくされましたが、それでも22試合に出場してチャンピオンズ・リーグの出場権を獲得しました。
翌シーズンにケガが癒え、リーグとチャンピオンズ・リーグの全試合に出場し、随所に好守備を見せてチームを牽引します。後者では決勝までコマを進めてミランと対戦し、前半の3点ビハインドを跳ね返して同点に追いつきPK戦に持ち込みました。このPK戦で話題となったGKデュデクの動き(デュデク・ダンス)のきっかけは、自身が彼に83/84シーズンにPK戦を制したチームの守護神グロベラーを参考にするよう助言したことだと言われています。翌年に日本で開催されたクラブW杯にも全2試合出場しますが、サンパウロに敗れました。
05/06シーズンはチャンピオンズ・リーグの予備選2回戦でゴールを挙げると、本戦でも8試合出場してベスト16に進出、FA杯では6試合戦い決勝でウェストハムを下しました。
06/07シーズンはチャンピオンズ・リーグで13試合に出場、決勝で再びミランと対戦しますが、インザーギに2ゴールを献上して敗れました。翌シーズンの同大会でもアーセナルやチェルシーといった面々と決勝トーナメントでしのぎを削りました。08/09シーズンも決勝トーナメントに進出してR・マドリーを下しますが、続く準々決勝で前年に続きチェルシーに敗れました。
09/10シーズンはデブレツェニ相手にエヌゴグのゴールをおぜん立てしましたが、リヨンとフィオレンティーナの前にグループリーグで敗退。その後のヨーロッパリーグでも8試合出場しますが、大会を制するA・マドリーに準決勝で敗れました。国内でも7位に低迷しました。
翌シーズンはヨーロッパリーグに参戦して10試合に出場しますが、準々決勝でブラガに敗戦。国内でも1月のケガで6年ぶりに出場試合が30を下回りました。11/12シーズンは開幕から精力的なプレーを見せ、ジェラード不在のチームを精神面で支えました。
12/13シーズンはアウェーのチェルシー戦でスアレスの同点ゴールを演出するなど、24試合に出場して引退しました。その後は解説者を務めています。

代表ではU−21イングランド代表の最多となる27キャップを記録。1997年Wユースではレギュラーとして全4試合に出場し、宿敵アルゼンチン戦でゴールを挙げました。
フル代表デビューは1999年のハンガリー戦でしたが、翌年の欧州選手権と2002年のW杯の出場はなりませんでした。2004年欧州選手権予選は不出場でしたが、ファーディナンドら主力の相次ぐ離脱に伴い本大会のメンバーに選出されました。
2006年W杯予選でも主にサブとしての出場でしたが6試合戦って本大会のメンバーに選ばれ、グループリーグ2戦目のトリニダード・トバゴ戦で初出場します。続く3戦目のスウェーデン戦、決勝トーナメントのエクアドル戦、ポルトガル戦でもピッチに立ちました。
2007年に29歳にして代表引退を宣言しますが、主力の離脱が相次ぐ代表のカペッロ監督から説得され、2010年W杯では2試合プレーしました。
代表記録 38試合

余談
・少年時代はエヴァートンのサポーターでした。
・出生したとき腹壁破裂という病気を患っていたため、おへそがありません。
2006年10月15日:新規アップ 2013年6月29日更新