ファビアン・カリーニ(Fabian CARINI)
フルネーム エクトル・ファビアン・カリーニ・エルナンデス
国籍 ウルグアイ
出身地 モンテビデオ
生年月日 1979・12・26
身長 189cm
体重 85kg
利き足
ポジション GK
FK PK PK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 1999・6・17
パラグアイ戦
代表背番号
W杯メンバー 02年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 01/02,06/07セリエA
04/05コッパ・イタリア
所属クラブおよび背番号 出場 得点
96/97 ダヌービオ
97/98 ダヌービオ
98/99 ダヌービオ 19
99/00 ダヌービオ 18
00/01 ユヴェントス(イタリア) 12
01/02 ユヴェントス(イタリア) 22
02/03 スタンダール・リエージュ(ベルギー) 1 28
03/04 スタンダール・リエージュ(ベルギー) 1 31
04/05 インテル(イタリア) 15
05/06 カリアリ(イタリア) 1 8        0       
06/07 インテル(イタリア) 79
07/08 ムルシア(スペイン) 1 11
08/09 ムルシア(スペイン2部) 1
09 アトレティコ・ミネイロ(ブラジル) 1 14
10/11 ペニャロール 12
11/12 ペニャロール 12 20
13 デポルティボ・キト(エクアドル) 13 39
14/15 フベントゥ・デ・ラス・ピエドラス 28
15/16 フベントゥ・デ・ラス・ピエドラス 27
17 フベントゥ・デ・ラス・ピエドラス 14
抜群の反射神経と絶妙のタイミングでの飛び出し、クロスへの対応や足元の技術も素晴らしく、若くして高い完成度を誇るGK。代表では不動の地位を築きますが、クラブレベルでは競争相手が名手ばかりだからとはいえ、満足できないものになっています。

幼少のころからGKとしてプレーし、8歳のときに母国のクラブ、ダヌービオの下部組織でデビュー。1996年にデビューし、ルベン・ソサやレコバを排出した新しい目玉となります。
00/01シーズン開幕前、ラツィオへの移籍が既定路線でしたが、一転ユヴェントスに移籍します。しかしファン・デル・サールに加え、翌シーズンはパルマから加入したブッフォンの前にベンチを温め、出場機会を求めベルギーへ移籍して正守護神になりました。
再び04/05シーズンにインテルに加入。4試合出場しただけで物足りなさはぬぐえず、同じセリエAのカリアリにレンタル移籍するも8試合の出場にとどまりインテルへ復帰します。しかしJ・セーザル、トルドとワールドクラスがしのぎを削っており、出場機会がありませんでした。
07/08シーズンにムルシアへ移り、10月7日ベティス戦でリーガデビュー。同時に加入した同胞のP・ガルシア、レゲイロらと共に1部残留を狙うも位置を獲れませんでした。
A・ミネイロでは全国選手権で14試合、チームも7位にとどまりました。ペニャロールでもフル稼働はならず、チームもあと一歩のところで優勝を逃しました。
2013年1月26日ロハ戦でデビューしたエクアドルリーグでは、39試合と長丁場レギュラーを張ります。しかしイエロー7枚、レッド2枚と不安定さを露呈しました。
14/15シーズンに母国に戻って正守護神になります。チームは1年目こそ6位でしたが、その後は2ケタ順位に甘んじました。3年目はPK含む2得点を挙げて引退しました。

1997年のWユースで準優勝メンバーになると、同年にアルゼンチンで開催されたU−20南米選手権で準優勝しました。1999年Wユースでは、準決勝で小野、稲本、高原など「黄金世代」の日本に敗れましたが、7試合に出場して大会ベストイレブンに選出されました。
同年の6月17日、コパ・アメリカのパラグアイ戦でフル代表デビューしてPKを2本止めます。次のチリ戦でもPK戦の末勝利しました。これらの活躍により不動の守護神になりました。
2002年のW杯予選で17試合に出場、本戦では予選リーグ敗退、2006年のW杯予選もオーストラリアとの大陸間プレーオフ含む5試合の出場も敗れ出場はなりませんでした。
2010年大会も5試合戦いましたが、ムスレラの台頭もあり本大会行きはなりませんでした。
代表記録 74試合

2006年1月25日:新規アップ 2017年6月17日更新