※1
フルネーム ※2
国籍 アルゼンチン カンビアッソ
出身地 ブエノスアイレス
生年月日 1980・8・18
身長 177cm
体重 78kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2000・12・20
メキシコ戦
代表背番号 5 19
W杯メンバー 06年
ニックネーム クチュ
個人タイトル  
チームタイトル 97FIFAワールドユース
02アルゼンチン後期リーグ
02/03リーガ・エスパニョーラ
02FIFAインターコンティネンタル・カップ
05,06,10,11コッパ・イタリア
05/06〜09/10セリエA
09/10UEFAチャンピオンズ・リーグ
10FIFAクラブワールドカップ
15/16,16/17ギリシャリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95/96 アルヘンティノス・ジュニアーズ    
96/97 レアル・マドリー・カスティージャ(スペイン2部)
97/98 レアル・マドリー・カスティージャ(スペイン3部) 34
98/99 インデペンディエンテ 27
99/00 インデペンディエンテ 35
00/01 インデペンディエンテ 35
01/02 リーベル・プレート 37 12
02/03 レアル・マドリー(スペイン) 19 24
03/04 レアル・マドリー(スペイン) 19 17
04/05 インテル(イタリア) 19 30
05/06 インテル(イタリア) 19 34
06/07 インテル(イタリア) 19 21
07/08 インテル(イタリア) 19 33
08/09 インテル(イタリア) 19 35
09/10 インテル(イタリア) 19 30
10/11 インテル(イタリア) 19 30
11/12 インテル(イタリア) 19 37
12/13 インテル(イタリア) 19 33
13/14 インテル(イタリア) 19 32
14/15 レスター(イングランド) 19 31
15/16 オリンピアコス(ギリシャ) 91 14
16/17 オリンピアコス(ギリシャ) 91 14
卓越した攻撃センス、足元のテクニック、運動量、戦術眼を兼ね備えており、中盤で攻守のバランスをとりつつタイミングを見計らって前線へ攻撃参加します。

首都ブエノスアイレスにイタリアにルーツを持つ家庭に生まれます。3歳からバスケットボールをしており、当時はサッカーを嫌っていましたが、父親と地元バルケのサッカーチームのコーチであるマドーニにより6歳からサッカーに取り組みます。アルゼンチン独自の室内サッカーであるハビーフットボールで技術を磨き、11歳までプレーしていました。
アルヘンティノスの入団テストに合格すると、ジュニアカテゴリーのチームで優勝する原動力となります。その後国際大会での活躍をR・マドリーに注目されて15歳で入団。しかしトップでのプレーはなく、3シーズンBチームに所属した後母国のインデペンディエンテにレンタル移籍します。01/02シーズンはリーベルへ入団し、後期リーグ優勝に貢献しました。
大きく成長を遂げて02/03シーズンからR・マドリーに復帰し、9月2日エスパニョール戦でリーガデビュー。マケレレと中盤でコンビを組みリーグ制覇を果たしました。翌シーズンに契約が満了になり、ベッカムが加入してきたこともあってセリエAに新天地を求めました。
2004年9月11日キエーヴォ戦でデビューし、不動のボランチとして活躍。攻撃のタクトを振るう同胞ベロンと共に中盤で存在感を発揮し、ローマやフィオレンティーナといった重要なゲームでゴールを挙げるなど存在をアピールすると、コッパ・イタリア決勝ローマ戦ではゴールを挙げてタイトル獲得に貢献しました。06/07シーズンのフィオレンティーナとの開幕戦では2ゴール1アシストでチームに勢いをもたらしますが、ケガで離脱しました。
復帰後は不動の司令塔となり、07/08シーズンにはミラノダービーでゴールを挙げてチームの連覇を4に伸ばしますが、09/10シーズン開幕前に右ヒザを痛めました。
それでも戦列に戻ると30試合に出場、人手が足りないCBとしてもプレーし、チャンピオンズ・リーグでもチェルシーからゴールを挙げるなど攻守に活躍、イタリア初の3冠に貢献しました。
10/11シーズンもナポリ、ローマ、フィオレンティーナからゴールを奪い、カターニャ戦では1試合2ゴールを見せて欧州での最多ゴールを挙げました。11/12シーズンはチーム最多の37試合に出場し、ルシオ、サネッティ、長友と共に低迷するチームのために汗を流しました。翌シーズンはミラノダービーでサムエルの決勝ゴールをおぜん立てすると、終盤にサネッティや長友といった頑丈な面々がケガで離脱する中、豊富な経験でチームをまとめました。
13/14シーズンで契約満了となり、10年過ごしたインテルを後にします。その後レスターと1年契約を結び、9月13日ストーク戦でプレミアデビューします。マンチェスター・U戦でゴールを決めて2連勝に貢献しますが、WBA戦では自らのオウンゴールで敗れ、2度の5連敗を喫するなど最下位が続きます。しかし後半に盛り返して降格を免れました。
15/16シーズンにオリンピアコスへ移り、8月29日レヴァディアコス戦でリーグデビュー。レギュラーではなかったものの、リーグ連覇で有終の美を飾っています。

14歳でユース代表に選出され、1995年のU−17世界選手権で6試合に出場。その後マレーシアで開催された1997年Wユースでもリケルメ、アイマールらと共に7試合プレーして優勝に貢献。2年後の同大会でも4試合プレーしましたが、ベスト16に終わりました。
2002年W杯には選ばれませんでしたが、ユース時代の恩師ペケルマン就任以降はレギュラーに定着、2005年コンフェデ杯は4試合戦いドイツ戦でゴールを挙げ、準優勝となりました。
2006年W杯予選は8試合に出場。本大会では5試合戦いセルビア・M戦で華麗なパス回しからゴールを挙げます。準々決勝ドイツ戦ではPK戦でミスし、敗退後は涙を流しました。
2010年W杯予選は8試合に出場。しかし途中でマラドーナ監督が就任し、同じポジションのマスチェラーノをキャプテンに指名したため構想外になりました。
マラドーナ監督が退任した後に復帰し、2011年コパ・アメリカで2試合戦っています。
代表記録 52試合5得点

※1:エステバン・カンビアッソ(Esteban CAMBIASSO)
※2:エステバン・マティアス・カンビアッソ・デロー
2008年3月9日:新規アップ 2017年9月8日更新