パウル・ブライトナー(Paul BREITNER) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | パウル・ブライトナー | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ドイツ | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1951・9・5 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 176cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 左 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(LMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1971・6・22 ノルウェー戦 |
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代表背番号 | 3 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 74年 82年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 81西ドイツ年間最優秀選手 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 70/71,81/82DFBカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
71/72〜73/74,79/80,80/81ブンデスリーガ | |||||||||||||||||||||||||||||
73/74UEFAチャンピオンズ・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
74FIFAワールドカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
74/75,75/76リーガ・エスパニョーラ | |||||||||||||||||||||||||||||
74/75コパ・デル・レイ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
70/71 バイエルン | 21 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
71/72 バイエルン | 30 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
72/73 バイエルン | 32 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
73/74 バイエルン | 26 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
74/75 レアル・マドリー(スペイン) | 29 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
75/76 レアル・マドリー(スペイン) | 25 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
76/77 レアル・マドリー(スペイン) | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
77/78 アイントラハト・ブラウンシュヴァイク | 30 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
78/79 バイエルン | 33 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
79/80 バイエルン | 32 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
80/81 バイエルン | 30 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
81/82 バイエルン | 29 | 18 | |||||||||||||||||||||||||||
82/83 バイエルン | 22 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
キャリアの序盤は、激しいタックルや無尽蔵のスタミナでの機を見計らった攻撃参加やパンチ力のあるシュートを武器とした左SBとして台頭、その後経験を積むにつれゲームメークやフィニッシュなど攻撃的MFとしてバイエルンやドイツ代表に栄光をもたらしました。 6歳でボールを蹴り始め、ユース時代はフライブルクでリベロとしてプレー。1970年にバイエルンへ引き抜かれますが、「皇帝」ベッケンバウアーの存在により中盤へポジションを移します。 G・ミュラーやヘーネスなどと共に牽引車となり、国内カップを手始めに71/72シーズンからリーグ3連覇を果たすと、73/74シーズンには決勝でイングランドのリーズを下してドイツ勢として初のチャンピオンズ杯制覇を成し遂げました。 1974年W杯終了後にR・マドリーへ移籍します。スペイン代表デル・ボスケや同胞のMFネッツァーと共に中盤を構成し、リーグ2冠連覇の原動力になりました。 ブラウンシュヴァイクからは攻撃力が増し、初の2ケタゴールをマーク。78/79シーズンに復帰したバイエルンではキャプテンに就いてルンメニゲと共に活躍し、翌シーズンからのリーグ2連覇とカップ制覇に貢献、1981年のバロンドールは彼に次ぐ2位となりました。 その破天荒なプレースタイルはもとより、パーマとひげをたくわえた独特の風貌や、「愛読書は毛沢東語録」などのような言動も注目を集めた異端児でした。 82/83シーズン途中に負傷してスパイクを脱ぎ、クラブスタッフとなっています。 1971年6月22日、アウェーのノルウェー戦にて代表デビュー。シュネリンガーの背番号3を受け継ぎ、翌年の欧州選手権では優勝メンバーに名を連ねました。 1974年W杯では7試合に出場。チリ戦、ユーゴスラヴィア戦ではロングシュートを、決勝オランダ戦では22歳とチーム最年少ながら大事なPKを冷静に決めて優勝に貢献しました。 1975年10月11日、本拠ギリシャ戦を終えた後に協会と対立して代表から離れました。その後1982年W杯予選で復帰して6試合3得点と実力の健在ぶりをアピール、本大会でもキャプテンとして7試合出場してチームを準優勝に導きました。イタリアとの決勝でPKを決めたことで、ブラジルのババ、ペレに次ぎ、複数の大会の決勝でゴールを挙げた3人目の選手となりました(4人目は1998年と2006年で達成したジダン)。 代表記録 47試合10得点 ※:コルヴェルモール 2009年7月5日:新規アップ 2015年8月1日更新 |