ヴヤディン・ボシュコフ(Vujadin BOSKOV)
フルネーム ヴヤディン・ボシュコフ
国籍 セルビア  
出身地 ベゲチュ
生年月日 1932・5・3
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1962〜64 ヤング・フェローズ(スイス)
1964〜71 ヴォイヴォディナ・テクニカルディレクター
1971〜73 1999〜01 ユーゴスラヴィア代表
1974〜76 FCデンハーグ(オランダ)
1976〜78 フェイエノールト(オランダ)
1978〜79 サラゴサ(スペイン)
1979〜82 レアル・マドリー(スペイン)
1982〜84 スポルティング・ヒホン(スペイン)
1984〜86 アスコリ(イタリア)
1986〜92 1997〜98 サンプドリア(イタリア)
1992〜93 ローマ(イタリア)
1994〜96 ナポリ(イタリア)
1996〜97 セルヴェッテ(スイス)
1999〜99 ペルージャ(イタリア)
獲得タイトル 65/66ユーゴスラヴィアリーグ
74/75オランダカップ
79/80リーガ・エスパニョーラ
79/80,81/82コパ・デル・レイ
87/88,88/89コッパ・イタリア
89/90UEFAカップウィナーズ・カップ
90/91セリエA
現役時代はマンマークやカバーリングと守備はもちろん、正確なビルドアップやミドルといった攻撃力、リーダーシップも備え、CBからボックス・トゥ・ボックス役もできる名手でした。
クラブはヴォイヴォディナやサンプドリアなどに在籍し、代表では1952年のヘルシンキ五輪、1954年、1958年のW杯など57試合に出場しました。

「すべての試合は0−0から始まる」、「レフェリーが笛を吹いたときがPK」など数々の名言を残した旧ユーゴを代表する名将です。4−4−2フラットを採用し、攻撃的なサッカーを志向します。
選手との関係を重視し、人格者としても名高い存在です。

現役の晩年にスイスのヤング・フェローズに在籍し、選手兼任監督に就任します。1年目は選手として14試合で4得点を挙げますが13位で降格し、2年目を最後に退団しました。
その後古巣ヴォイヴォディナのテクニカルディレクターに就任し、65/66シーズンに国内リーグを制しました。この結果を受けて翌シーズンはチャンピオンズ杯に出場、A・マドリーを下すアップセットを演じますが、準々決勝で優勝するセルティックに2試合合計1−2で敗れました。国内リーグでは順位が安定せず、最後の2シーズンは2ケタ順位と精彩を欠きました。
その後母国代表に就任します。1972年欧州選手権予選ではクライフ擁するオランダと1勝1分で勝ち越してグループを首位で通過しますが、プレーオフでソ連に完敗しました。
FCデンハーグでは国内カップを制し、フェイエノールトに招へいされます。1年目は4位でしたが、2年目はエースN・ヤンセンがブレーキとなり10位に沈みました。
昇格したサラゴサではピチ・アロンソが19得点を挙げるなど、14位で残留に成功。また、V・ムニョスやアンティッチと後に監督として名を馳せる面々にも影響を与えました。
79/90シーズンにR・マドリーに就任します。サンティジャーナ、フアニート・Gの2トップ、デル・ボスケ、シュティーリケの中盤、LSBカマーチョを中心に1年目に国内2冠、2年目にカップ連覇を達成しました。チャンピオンズ杯ではホンヴェド、S・モスクワ、インテルを下して決勝に進出しますがリヴァプールに敗れ、クラブ7度目のビッグイヤーはなりませんでした。
S・ヒホンでは就任以前14位だったチームを2年連続で8位に上げました。マッツォーネ監督の後任となったアスコリでは14位で降格しますが、Bを制して1年でAに復帰しました。
サンプドリアでは国内カップを連覇し、88/89シーズンから2年連続でカップウィナーズ杯決勝に進出します。1度目はバルサに敗れますが、2度目はヴィアッリが延長戦で2得点を挙げてアンデルレヒトを下しました。5年目は17得点で得点王になるヴィアッリの活躍もありクラブ初のスクデットを獲得、6年目はチャンピオンズ杯で準優勝するなど黄金期を築きました。また、マンチーニや同胞のカタネツに帝王学を伝授、後者には自宅に泊めて指導しました。
ローマでは16歳のトッティをデビューさせますが10位に終わり1年で退任、ナポリでも2年で順位を下げました。スイスのセルヴェッテも2部リーグと苦しい時期を過ごしました。
97/98シーズンにサンプドリアに復帰。黄金期を知るマンニーニ、同胞ミハイロヴィッチ、ナポリ時代のボゴシアン、アルゼンチン代表ベロンと中盤以降は安定しました。攻撃はクリンスマンとシニョーリが精彩を欠く一方、若いモンテッラが20得点を挙げて一ケタ順位になりました。翌シーズン途中にペルージャに就任、中田英とラパイッチを中心にA残留に成功しました。
そして2度目の母国代表に就任。2000年欧州選手権予選は分裂したクロアチアと2試合とも引き分けに終わり、アイルランドを制して1位で通過しました。本戦はサヴィチェヴィッチが不在、さらに正GKコチッチがシャワールームで負傷して離脱しました。そして教え子カタネツ率いるスロヴェニアに3失点、カマーチョ率いるスペインに4失点しながらも、ストイコヴィッチのリーダーシップや得点王になるミロシェヴィッチの活躍でグループリーグを突破しました。しかしオランダとの準々決勝で6失点と惨敗し、2002年W杯予選までの任期終了を早めて辞任しました。
2014年4月27日に82歳で亡くなりました。

2018年1月8日:新規アップ

80/81レアル・マドリー(CC準優勝)
  サンティジャーナ  
カニンガム フアニート
デ・ロス・サントス デル・ボスケ
  シュティーリケ  
カマーチョ G・コルテス
G・ナバハス サビド
  アグスティン・R  

90/91サンプドリア(国内リーグ優勝)
マンチーニ ヴィアッリ
ドッセーナ ロンバルド
T・セレーゾ パリ
インベルニッツィ マンニーニ
ペジェグリーニ ビエルコウッド
  パリュウカ  

91/92サンプドリア(CC準優勝)
ヴィアッリ マンチーニ
I・ボネッティ ロンバルド
カタネツ T・セレーゾ
パリ マンニーニ
ビエルコウッド ランナ
  パリュウカ  

98/99ペルージャ
  ブッキ  
  中田英寿  
ラパイッチ ペトラーキ
オリーヴェ テデスコ
コロンネッロ イラーリオ
M・リバス マトレカーノ
  マッツァンティーニ  

00ユーゴスラヴィア代表(欧州選手権ベスト8)
ミロシェヴィッチ ミヤトヴィッチ
ストイコヴィッチ ドゥルロヴィッチ
ユーゴヴィッチ ヨカノヴィッチ
ジョロヴィッチ コムリェノヴィッチ
ジュキッチ サヴェリッチ
  クラリ