カルロス・ビラルド(Carlos BILARDO)
フルネーム カルロス・サルバドール・ビラルド
国籍 アルゼンチン
出身地
生年月日 1939・3・16
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1971〜75 1982〜83 2003〜04
エストゥディアンテス
1976〜78 デポルティボ・カリ(コロンビア)
1978〜79 サン・ロレンソ
1979〜81 コロンビア代表
1983〜90 アルゼンチン代表
1992〜93 セビージャ(スペイン)
1996〜96 ボカ・ジュニアーズ
1999〜00 リビア代表
獲得タイトル 82アルゼンチンリーグ
86FIFAワールドカップ
86,87南米年間最優秀監督
現役時代は守備的MFとしてプレー、1960年代後半に在籍したエストゥディアンテスではリベルタドーレス杯3連覇を達成し、一時代を築きました。また、アルゼンチンユース代表として1960年ローマ五輪に出場しています。

1966年W杯準々決勝イングランド戦(代表には入っていません)、1968年インターコンティネンタル杯マンチェスター・U戦で見せた荒々しいサッカーに対し、イングランドからは「アニマル」と酷評されましたが、このスタイルを監督になっても踏襲します。
メノッティ監督と並ぶアルゼンチンサッカー界の草分け的存在で、攻撃サッカーを標榜して結果を残した彼に対し、守備を重視した現実的な采配を振るいます。周囲の非難にもメノッティと同様の結果を残したことで、アルゼンチン国内ではメノッティ派、ビラルド派という言葉があるほど、同国の監督像を象徴することになったのです。

エストゥディアンテスで現役を引退、そのままクラブに残り、すぐに監督としてのキャリアを始めます。コロンビアのD・カリ、サン・ロレンソを経てコロンビア代表に就任しますが、1982年W杯出場権を逃し解任されました。その後古巣に戻りリーグ優勝を達成しました。
1983年にアルゼンチン代表に就任。マラドーナを最大限に生かすチーム作りを行い、「クリスマスツリー」と呼ばれる4−3−2−1のフォーメーションを採用、3センターのバティスタ、ジュスティ、エンリケが特に大事な役割を果たしました。攻撃陣はナポリのマラドーナ、ナントのブルチャガの二人がトップ下を組み、1トップはR・マドリーのバルダーノと欧州勢で固めました。
1986年W杯では、R・ディアスが登録メンバーから外され、前回大会の主将パサレラに出場機会が与えられないなどのチーム運営が大きな議論を呼びます。そんな混沌とした状況でもグループリーグでは前回覇者イタリアと同居するも2勝1分けで突破すると、決勝トーナメントでは隣国ウルグアイを退け、因縁ともいえる準々決勝イングランド戦ではマラドーナが「5人抜き」、「神の手ゴール」とサッカー史に残るビッグプレーを連発、準決勝ベルギー戦でも彼の2ゴールにより勝利を収めました。決勝西ドイツ戦では2点を先制したものの、引き分けに持ち込まれます。しかしブルチャガの勝ち越しゴールが決まって2大会ぶりの優勝を果たしました。
その後2度行われたコパ・アメリカでは4位、3位と結果を残せず、1986年W杯に臨みます。3−5−1−1を採用し、8人で守ってマラドーナとカニージャで攻めるスタイルを標榜しますが、肝心のマラドーナがケガで不振に陥っていました。グループリーグではカメルーンに不覚を取りました。しかしどうにか突破し、決勝トーナメントではブラジル戦をマラドーナの活躍でものにすると、ユーゴとイタリアにはPK戦に持ち込んで勝利します。しかし決勝では、それまでの累積警告によりカニージャなど主力4人が出場停止となり、西ドイツに雪辱を許しました。
セビージャやボカでもマラドーナ主体にチームを作りました。リビア代表を辞めた後はフリーで3年過ごし、2003年にエストゥディアンテスに復帰。2006年W杯では解説者を務めました。
2008年10月にマラドーナがアルゼンチン代表監督に就任しますが、実戦・戦術ともに経験不足である彼を支えるべくGMとなり、苦戦の末2010年W杯出場権を獲得しました。
・フォーメーションのフリオ・Oはオラルティコエチェアです。
※ブエノスアイレス
2009年12月24日:新規アップ 2012年7月8日更新

86アルゼンチン代表(W杯優勝)
  バルダーノ  
マラドーナ ブルチャガ
エンリケ ジュスティ
バティスタ
フリオ・O クシューフォ
ルジェリ ブラウン
プンピード

90アルゼンチン代表(W杯準優勝)
マラドーナ カニージャ
ブルチャガ トログリオ
フリオ・O バスアルド
  ジュスティ  
ルジェリ モンソン
  シモン  
  ゴイコチェア