カルロス・ビラルド(Carlos BILARDO) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | カルロス・サルバドール・ビラルド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | アルゼンチン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1939・3・16 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経歴 | 1971〜75 1982〜83 2003〜04 エストゥディアンテス |
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1976〜78 デポルティボ・カリ(コロンビア) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1978〜79 サン・ロレンソ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1979〜81 コロンビア代表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1983〜90 アルゼンチン代表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992〜93 セビージャ(スペイン) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1996〜96 ボカ・ジュニアーズ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999〜00 リビア代表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
獲得タイトル | 82アルゼンチンリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86FIFAワールドカップ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86,87南米年間最優秀監督 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現役時代は守備的MFとしてプレー、1960年代後半に在籍したエストゥディアンテスではリベルタドーレス杯3連覇を達成し、一時代を築きました。また、アルゼンチンユース代表として1960年ローマ五輪に出場しています。 1966年W杯準々決勝イングランド戦(代表には入っていません)、1968年インターコンティネンタル杯マンチェスター・U戦で見せた荒々しいサッカーに対し、イングランドからは「アニマル」と酷評されましたが、このスタイルを監督になっても踏襲します。 メノッティ監督と並ぶアルゼンチンサッカー界の草分け的存在で、攻撃サッカーを標榜して結果を残した彼に対し、守備を重視した現実的な采配を振るいます。周囲の非難にもメノッティと同様の結果を残したことで、アルゼンチン国内ではメノッティ派、ビラルド派という言葉があるほど、同国の監督像を象徴することになったのです。 エストゥディアンテスで現役を引退、そのままクラブに残り、すぐに監督としてのキャリアを始めます。コロンビアのD・カリ、サン・ロレンソを経てコロンビア代表に就任しますが、1982年W杯出場権を逃し解任されました。その後古巣に戻りリーグ優勝を達成しました。 1983年にアルゼンチン代表に就任。マラドーナを最大限に生かすチーム作りを行い、「クリスマスツリー」と呼ばれる4−3−2−1のフォーメーションを採用、3センターのバティスタ、ジュスティ、エンリケが特に大事な役割を果たしました。攻撃陣はナポリのマラドーナ、ナントのブルチャガの二人がトップ下を組み、1トップはR・マドリーのバルダーノと欧州勢で固めました。 1986年W杯では、R・ディアスが登録メンバーから外され、前回大会の主将パサレラに出場機会が与えられないなどのチーム運営が大きな議論を呼びます。そんな混沌とした状況でもグループリーグでは前回覇者イタリアと同居するも2勝1分けで突破すると、決勝トーナメントでは隣国ウルグアイを退け、因縁ともいえる準々決勝イングランド戦ではマラドーナが「5人抜き」、「神の手ゴール」とサッカー史に残るビッグプレーを連発、準決勝ベルギー戦でも彼の2ゴールにより勝利を収めました。決勝西ドイツ戦では2点を先制したものの、引き分けに持ち込まれます。しかしブルチャガの勝ち越しゴールが決まって2大会ぶりの優勝を果たしました。 その後2度行われたコパ・アメリカでは4位、3位と結果を残せず、1986年W杯に臨みます。3−5−1−1を採用し、8人で守ってマラドーナとカニージャで攻めるスタイルを標榜しますが、肝心のマラドーナがケガで不振に陥っていました。グループリーグではカメルーンに不覚を取りました。しかしどうにか突破し、決勝トーナメントではブラジル戦をマラドーナの活躍でものにすると、ユーゴとイタリアにはPK戦に持ち込んで勝利します。しかし決勝では、それまでの累積警告によりカニージャなど主力4人が出場停止となり、西ドイツに雪辱を許しました。 セビージャやボカでもマラドーナ主体にチームを作りました。リビア代表を辞めた後はフリーで3年過ごし、2003年にエストゥディアンテスに復帰。2006年W杯では解説者を務めました。 2008年10月にマラドーナがアルゼンチン代表監督に就任しますが、実戦・戦術ともに経験不足である彼を支えるべくGMとなり、苦戦の末2010年W杯出場権を獲得しました。 ・フォーメーションのフリオ・Oはオラルティコエチェアです。 ※ブエノスアイレス 2009年12月24日:新規アップ 2012年7月8日更新 86アルゼンチン代表(W杯優勝)
90アルゼンチン代表(W杯準優勝)
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