マルセロ・ビエルサ(Marcelo BIELSA)
フルネーム マルセロ・アルベルト・ビエルサ・カルデラ
国籍 アルゼンチン  
出身地 ロサリオ
生年月日 1955・7・21
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴  1990〜92 ニューウェルス・オールドボーイズ
1992〜94 アトラス(メキシコ)
1995〜96 クラブ・アメリカ(メキシコ)
1997〜98 ベレス・サルスフィエルド
1998〜98 エスパニョール(スペイン)
1998〜04 アルゼンチン代表
2007〜11 チリ代表
2011〜13 アスレティック・ビルバオ(スペイン)
2014〜15 マルセイユ(フランス)
2017〜17 リール(フランス)
2018〜   リーズ(イングランド)
獲得タイトル 90/91アルゼンチンリーグ
92,97,98アルゼンチン後期リーグ
04アテネオリンピック金メダル
09南米年間最優秀監督
アルゼンチン第2の都市ロサリオにある法律家の家に生まれます。ラファエルやマリアと政治家志望の兄妹(いずれも後に国内最大のペロン党に所属)の中でサッカー選手を志します。
そして少年時代から憧れていたニューウェルスに入団、1976年2月29日リーベル戦でトップデビューを果たします。しかしわずか4試合に終わり、I・コルドバやA・ロサリオなど下部クラブを渡り歩きますが、ケガのため25歳での引退を余儀なくされました。ポジションはCBでした。

自宅に大量に所持しているサッカーのビデオを観ることが趣味であり、同時に2試合見ることもあります。食事中にサッカーの話題になるとコップを選手に見立てて戦術論を展開し、自ら「24時間サッカーのことを考えている」と語るなど、エル・ロコ(クレイジー、マッドという意味で、警告や退場が多い選手や奇抜なプレーをする選手)と呼ばれます。
多少の失点には目をつむり、攻撃陣には比較的自由を与えます。組織サッカーを追求する戦術家であり、アヤックスの3−4−3を発展させた守備的な3−3−1−3、あるいは中盤をダイヤモンドにしてサイド攻撃を強める3−1−2−1−3のシステムが代名詞です。

現役に早々と見切りをつけ、運動心理学を学ぶためブエノスアイレス大学に進んでライセンスを取得します。そして古巣ニューウェルスでアシスタントコーチに就任し、ガンボア、ベリーソ、ポチェティーノらを擁して88シーズンに2部リーグを制し、90シーズンに監督に昇格します。
1992年にはチームをリベルタドーレス杯決勝に導きましたが、ライー、T・セレーゾ、カフーらを擁するサンパウロに敗れて準優勝となりました。その後メキシコに渡ってアトラスやアメリカで指揮を執り、ユース育成プロジェクトの立ち上げにも参加するなど同国の発展に貢献しました。
アルゼンチンに復帰してベレスに就任。GKチラベルとの確執はあったものの、後期リーグ優勝に導きます。その後エスパニョールに就任しますが、パサレラ監督の後任として白羽の矢が立ち、シーズン途中にアルゼンチンに帰国します。当初はユース代表で実績を残したペケルマンが監督になる予定でしたがGMとなったため、彼の推薦を受ける形で監督に就任しました。
2002年W杯予選では得点42、失点13、13勝4分1敗と圧倒的な強さを見せ、1位で通過を果たします。予選18試合で起用した選手はわずか28人とメンバーを固定して戦い、この間に培われた組織力と個々のレベルの高さが結実した結果となりました。
優勝候補の一角とされて臨んだ本大会は、「死のグループ」に組み込まれます。初戦のナイジェリア戦をバティのゴールで確実に勝利しますが、イングランド戦は前回大会で退場に追い込んだベッカムにPKを決められ手痛い黒星を喫し、スウェーデンともドローに終わりました。自慢の攻撃陣はわずか2点しか取れず、まさかのグループリーグ敗退となりました。
メディアとの確執があり、国民に支持されていない戦術で結果を残せなかったため退陣も取りざたされましたが、求める役割や起用する意図を丁寧に説明するため選手からは信頼され、引き続き指揮を執ります。そして2004年コパ・アメリカでは4バックに対応するなど柔軟な采配を見せて決勝にコマを進めますが、宿敵ブラジルにPK戦の末敗れました。
その後のアテネ五輪では得点王となったテベスを筆頭に、ダレッサンドロ、マスチェラーノ、ルチョ・ゴンサレスなどタレントに恵まれ、アジャラ、エインセといったオーバーエージのDFの活躍もあり、無失点という圧倒的な強さで母国に初の金メダルをもたらしました。しかしモチベーションの低下を理由に、後を盟友ペケルマンに託して突如辞任を発表しました。
2007年にチリ代表に就任。2010年W杯予選ではエースのスアソが南米最多の10得点を挙げ、M・フェルナンデスやA・サンチェスも後に続きます。GKブラーボ、CBハラ、メデルらを擁する守備はプレーオフ圏内含む上位5位の中で最多の22失点を喫し、首位を争うブラジルに連敗しましたが、わずか勝ち点1差の2位で通過してチリを3大会ぶりの本大会に導きます。
初戦はスアソをケガでベンチに置いて本来司令塔のバルディビアを据える「ゼロトップ」を採用、ボーセジュールの決勝点で勝利します。スイス戦はスアソが復帰し、左サイドのボーセジュールやビダルらが右サイドを攻めてベーラミを退場に追い込み、数的有利を作ってM・ゴンサレスが決勝点を挙げました。スペイン戦はエストラーダが前半で退場になるなど劣勢を覆せませんでしたが、もう一方のスイス対ホンジュラスがスコアレスドローだったため2位でグループリーグを通過しました。続くブラジル戦ではセットプレーやカウンターなどで3失点して敗れました。
その後インテルのオファーを固辞してビルバオに就任。J・マルティネスのCBへのコンバートなど独自の戦術をチームに浸透させ、エースのジョレンテはバレンシアのソルダードと並びスペイン人最多タイのリーグ17得点をマークします。リーグは10位でしたが、国内カップで準優勝、ヨーロッパリーグでもムニアインが5得点と成長を見せるなどマンチェスター・Uやシャルケを破ります。決勝ではA・マドリーとの同国対決でしたが、ファルカオの2得点などで敗れました。
2年目はJ・マルティネスがバイエルンに引き抜かれます。さらにアモレビエタやジョレンテがクラブとの契約延長を拒んできたため戦力ダウンを余儀なくされました。ジョレンテの後釜として5年ぶりに戻ってきたアドゥリスが14得点を挙げ、スサエタやエレーラが成長の跡を見せたものの、リーグ12位に終わり、カップ戦も結果を残せず退任しました。
1年の休息を経て14/15シーズンにマルセイユに就任。リーグ2位の21点を挙げたジニャク、リーグ最多の16アシストを見せたパイエ、A・アユーを中心に破壊力を見せて4位になり、ヨーロッパリーグ出場権を獲得します。しかし2年目の開幕戦で敗れた後に辞任しました。
16/17シーズンにラツィオ就任が一度は決まったものの、2日で辞任しました。翌シーズンからリールを率いますが、職務違反で解任されました。
18/19シーズンにリーズに就任しています。

2014年10月26日:新規アップ 2018年6月15日更新

92ニューウェルス(リベルタドーレス準優勝)
  ルナリ  
メンドーサ ザモラ
マルティノ ベルティ
  ルロップ  
ベリッソ サルダーニャ
ポチェティーノ ガンボア
  スコボーニ  

99アルゼンチン代表(コパ・アメリカベスト8)
パレルモ
K・ゴンサレス オルテガ
リケルメ
ソリン サネッティ
シメオネ
サムエル ポチェティーノ
アジャラ
ブルゴス

02アルゼンチン代表(W杯出場)
バティストゥータ
C・ロペス オルテガ
ベロン
ソリン サネッティ
シメオネ
プラセンテ ポチェティーノ
サムエル
カバジェロ

04アルゼンチン代表(コパ・アメリカ準優勝)
  L・フィゲロア  
  テベス  
K・ゴンサレス C・デルガド
マスチェラーノ ルチョ・G
ソリン サネッティ
エインセ コロッチーニ
  アボンダンシエリ  

04アルゼンチンユース代表(五輪優勝)
テベス
C・デルガド ロサレス
ダレッサンドロ
K・ゴンサレス ルチョ・G
マスチェラーノ
エインセ コロッチーニ
アジャラ
ルクス

10チリ代表(W杯ベスト16)
スアソ
ボーセジュール A・サンチェス
フェルナンデス
ビダル イスラ
カルモナ
ハラ メデル
ポンセ
ブラーボ

11/12A・ビルバオ(国内カップ、EL準優勝)
  ジョレンテ  
ムニアイン スサエタ
デ・マルコス アンデル
  イトゥラスペ  
アウルテネチェ イラオラ
アモレビエタ J・マルティネス
  イライソス