ジョージ・ベスト(George BEST)
フルネーム ジョージ・ベスト
国籍 北アイルランド
出身地 ベルファスト
生年月日 1946・5・22
身長 174cm
体重 65kg
利き足  
ポジション FW(RWG)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1964・4・15
ウェールズ戦
代表背番号  
W杯メンバー  
ニックネーム ビートル
個人タイトル 67/68イングランド・フットボールリーグ得点王
67/68イングランド・フットボールリーグ年間最優秀選手(FWA)
68北アイルランド年間最優秀選手
68バロンドール(フランスフットボール誌)
チームタイトル 64/65,66/67イングランド・フットボールリーグ
67/68UEFAチャンピオンズ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
63/64 マンチェスター・U(イングランド) 17
64/65 マンチェスター・U(イングランド) 41 10
65/66 マンチェスター・U(イングランド) 31
66/67 マンチェスター・U(イングランド) 42 10
67/68 マンチェスター・U(イングランド) 41 28
68/69 マンチェスター・U(イングランド) 41 19
69/70 マンチェスター・U(イングランド) 37 15
70/71 マンチェスター・U(イングランド) 40 18
71/72 マンチェスター・U(イングランド) 40 18
72/73 マンチェスター・U(イングランド) 19
73/74 マンチェスター・U(イングランド) 12
74 ジェウィッシュ・ギルド(南アフリカ)
74/75 ダンスターブル(イングランド8部)
75/76 ストックポート(イングランド4部)
76 コーク・セルティック(アイルランド)
76 ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ) 24 15
76/77 フルハム(イングランド2部) 37
77 ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ) 25 13
77/78 フルハム(イングランド) 10
78 ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ)  12
79 ゴールデンベイ・アースクウェイクス(アメリカ) 30 13
79 フォート・ローダーデール・(アメリカ) 14
79/80 ハイバーニアン(スコットランド) 22
80 フォート・ローダーデール(アメリカ) 19
81 ゴールデンベイ・アースクウェイクス(アメリカ) 56 21
82/83 ボーンマス(イングランド3部)
83 ブリスベン(オーストラリア)
84/85 トパモレ
スピードにフェイントを織り交ぜてサイドを切り裂き、ゴールを狙います。ボディバランスにも優れ、広範囲を見渡す視野や跳躍力も備えた北アイルランドが誇る伝説のアタッカーです。

1945年北アイルランドのベルファストで生を受けたジョージは、15歳でマンチェスター・Uの下部組織に入り、17歳の誕生日にプロ契約を結びます。1963年9月14日WBA戦にてトップチームでデビューを果たし、2週間後のバーンレー戦で初ゴールを挙げました。
マンチェスター・Uでは11シーズンに渡り主力として活躍。マット・バスビー監督の下、ボビー・チャールトンらと共にチームを高みへと導きます。65/66シーズンのチャンピオンズ杯準々決勝2ndレグでは2ゴールを奪います。特に2ゴール目は相手GKのパントキックを奪って見事なドリブルで3人のDFを交わした末に叩き込むという、スペクタクルあふれるゴールでした。そのシーズンは惜しくも旧ユーゴスラヴィアのパルチザンに準決勝で敗れました。
67/68シーズンは得点王に輝きリーグ優勝に貢献、チャンピオンズ杯でもR・マドリーとの準決勝でDFビル・フォルケスのゴールをおぜん立てして勝利しました。決勝ベンフィカ戦では後半ロスタイムに決勝ゴールを挙げてチームに栄冠をもたらします。そしてイングランドの記者選出による年間最優秀選手や、当時の最年少記録となる22歳でバロンドールを受賞しました。
1970年のFA杯5回戦ノーサンプトン戦では1試合6ゴールを決め、戦後におけるクラブの1試合最多記録を作りました。マンチェスター・Uでは466試合で178ゴールを挙げました。
非凡な才能とアイドルのようなルックスに加え、奔放な性格による派手な私生活にも注目が集まりました。趣味が高じてマンチェスターに2つのナイトクラブを経営するなど事業にも手を出しましたが、失敗に終わりました。また、アルコール中毒で体調を壊すことも多く、マンチェスターを去ることになり、その後アメリカなどのクラブを転々とします。行く先々では、コンディションを整えることに精を出しますが、結果がついて来ず、引退を余儀なくされました。
その後は解説者などを務めるなど相変わらず一線で活躍していましたが、昔の不摂生が響きアルコール依存症や肝臓病で闘病生活を送りました。
2005年11月25日に59歳の若さで死去。故郷ベルファストで行われた葬儀の参列者は10万人に上りました。また、2006年にはベルファスト・シティ空港に自らのフルネームが冠され、自らの肖像が描かれた紙幣も発行されるなど、死してもなお根強い人気を誇りました。

代表デビューは、1964年4月15日ウェールズ戦。母国が欧州の中では弱小国であったこともあり、国際大会には縁がありませんでした。
W杯予選は1966年から1978年大会まで参加し、通算成績は12試合4ゴールでした。
代表記録 37試合9得点

余談
・長髪と甘いマスクにより、「五人目のビートルズ」と呼ばれるなど絶大な人気を誇りました。マンチェスター・Uでは7番を着けることが多く、以降クラブのエースナンバーとなりました。
2006年2月5日:新規アップ 2012年8月16日更新