デイヴィッド・ベッカム(David BECKHAM)
フルネーム デイヴィッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム
国籍 イングランド
出身地 レイトンストーン
生年月日 1975・5・2
身長 182cm
体重 74kg
利き足
ポジション MF(RMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1996・9・1
モルドヴァ戦
代表背番号
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム ベックス
個人タイトル 96イングランド年間最優秀若手選手(PFA)
98/99UEFA最優秀MF
98/99UEFA最優秀選手
00/01,02/03UEFAベストイレブン
チームタイトル 95/96,96/97,98/99,99/00,00/01,02/03
プレミアリーグ
95/96.98/99FAカップ
98/99UEFAチャンピオンズ・リーグ
99FIFAインターコンティネンタル・カップ
06/07リーガ・エスパニョーラ
11,12メジャーリーグサッカー
12/13リーグアン
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91/92 マンチェスター・ユナイテッド
92/93 マンチェスター・ユナイテッド
93/94 マンチェスター・ユナイテッド
94/95 プレストン(3部) 2 
94/95 マンチェスター・ユナイテッド
95/96 マンチェスター・ユナイテッド 24 33
96/97 マンチェスター・ユナイテッド 10 36
97/98 マンチェスター・ユナイテッド 7 37
98/99 マンチェスター・ユナイテッド 7 34
99/00 マンチェスター・ユナイテッド 7 31
00/01 マンチェスター・ユナイテッド 7 31
01/02 マンチェスター・ユナイテッド 7 28 11
02/03 マンチェスター・ユナイテッド 7 31
03/04 レアル・マドリー(スペイン) 23 32
04/05 レアル・マドリー(スペイン) 23 30
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 23 31
06/07 レアル・マドリー(スペイン) 23 23
07 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23 0 
08 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23 25
08/09 ミラン(イタリア) 32 17
09 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23 11
09/10 ミラン(イタリア) 32 11
10 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23
11 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23 26
12 ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ) 23 24
12/13 パリ・サンジェルマン(フランス) 32 10
言わずもがなのイングランドのスタープレーヤー。端正なルックスや派手な私生活により、ピッチの外でも話題に事欠きません。独特のフォームから放たれる世界屈指の精度を誇るFKやクロスは代名詞的存在です。その軌道は落ちて曲がるため相手にとって脅威的です。
華麗な部分ばかりが注目されますが、裏腹に持久力に長け、泥臭い守備や状況によりラフプレーもいとわないため、本来の右サイドのほかにセンターでも機能します。

ロンドン東部のレイトンストーン生まれ。アーセナルサポーターが多かったものの、父親の影響でマンチェスター・Uのサポーターとして試合観戦をする幼少時代を送ります。母親が美容師だったため髪型も当時からこだわりを見せていました。
11歳の頃、B・チャールトンが主宰するスクールに参加します。一度トッテナムのユースに加入し、S・キャンベルらと共に練習に参加しますが、14歳の誕生日にマンチェスター・Uの下部組織に入ります。1991年に16歳で練習生契約を交わし、翌年にスコールズ、ギグス、バット、ネヴィル兄弟らと共にユース杯を制しました。決勝のC・パレス戦では得点を挙げています。
1993年にプロ契約を交わしましたが、ブレストンへレンタル移籍し、94/95シーズンの4月2日リーズとのホームゲームでリーグデビューを果たします。それまで主力だったカンチェルスキスが放出されたためレギュラーとなり、いきなりリーグとFA杯の2冠を獲得しました。
96/97シーズンのウィンブルドンとの開幕戦では、ハーフウェーライン付近からのシュートを決めて周囲の度肝を抜きました。その後連覇を達成し、チャンピオンズ・リーグでもベスト4進出を果たしました。97/98シーズンより引退したカントナから背番号7を受け継ぎ、翌シーズンにはリーグ、FA杯、チャンピオンズ・リーグを制する「トレブル」を達成。チャンピオンズ・リーグ決勝では、シェリンガムとスールシャールの得点をアシストしました。この活躍によりFIFA最優秀選手とヨーロッパ最優秀選手投票でどちらも2位となっています。
クラブの黄金時代とともに歩んでいたキャリアでしたが、02/03シーズンにファーガソン監督との確執が表面化。試合に敗れた後のロッカールームで、監督が蹴ったスパイクが自身の顔面に直撃しました。これが新天地への移籍を決断させた一因とも言われています。
03/04シーズン、大物選手を次々に獲得していたR・マドリーに移籍して初の海外挑戦となります。また、マンチェスター・Uで一緒だったケイロスが監督に就任しました。
2003年8月30日、ベティスとの開幕戦でリーガデビューすると、いきなり得点を決めて幸先のいいスタートを切ります。フィーゴとの共存が懸念される中、当初は右サイドでしたが、やがて中央にポジションを変更します。サイドからクロスを上げる機会は減りましたが、前線へ正確なフィードを供給してロナウドのスピードを生かすカウンターの起点となりました。守備面でも献身的に動きましたが、優秀なCBの不在でリーグ4位に終わりました。
2年目はアウェーのクラシコで2アシストを決めて勝利に貢献しますが、監督交代が相次ぎクラブは混迷、バルセロナの好調もあり無冠が続きました。さらに06/07シーズンにカペッロ監督が就任してからは出場機会が激減します。シーズン途中でアメリカへの移籍を発表したため戦力外にもなりましたが、監督の態度が軟化して出場機会を得ると好プレーを連発して4シーズンぶりのリーグ優勝に貢献、スペインでの唯一のタイトルを獲得しました。
その後MLSに活躍の場を移します。8月9日DC・U戦でデビューし、2年目は25試合5得点の結果を残しました。2009年1月にはミランへレンタル移籍し、11日ローマ戦でセリエAにデビュー。ボローニャ、ジェノアと2節連続得点、続くラツィオ戦で2アシストと高水準のパフォーマンスを見せます。翌年も再びレンタル移籍すると、チャンピオンズ・リーグでは古巣マンチェスター・Uの本拠地オールド・トラフォードにミランの選手としてピッチに立ちました。
12/13シーズンの冬にPSGへ移籍し、無給でのプレーを表明。2月24日マルセイユ戦でリーグアンデビューし、主に途中出場から流れを変える役割を果たします。レンヌ戦や現役最後の試合となったブレスト戦でアシストを見せ、クラブ19年ぶりのリーグ優勝に立ち会いました。

ホドル監督に招集され、1996年9月1日モルドヴァ戦で代表デビュー。1998年W杯予選はこの試合含めて7試合に出場し、本大会でもグループリーグのコロンビア戦でFKを決めて代表初得点をマークします。しかし決勝トーナメントのアルゼンチン戦ではシメオネへの報復行為で一発退場となり、試合にも敗れて戦犯扱いを受けました。
2000年の欧州選手権はグループリーグで敗退し、2002年W杯予選は主将として7試合3得点と活躍。本拠ギリシャ戦では終了直前にFKを決めて首位で通過します。チャンピオンズ・リーグで左足を骨折して本大会出場が危ぶまれるも回復、グループリーグのアルゼンチン戦ではPKを決めて雪辱を果たし、デンマーク戦でも2アシストを決めてベスト8に進出しました。
2004年欧州選手権予選は7試合5得点で本大会出場を決めます。しかし予選のトルコ戦や、本大会フランス戦、準々決勝ポルトガル戦とPKの失敗が続きました。
2006年W杯予選は8試合で2得点を挙げて、3度目の本大会出場を果たします。パラグアイ戦で相手のオウンゴールを誘うFK、トリニダード・トバゴ戦で2アシスト、エクアドル戦もFKを決めましたが、前評判の高かったチームを優勝に導くことはできませんでした。
マクラーレン監督就任後は召集を受けませんでしたが、復帰した試合でアシストを記録して存在意義を改めて示します。しかし2008年欧州選手権予選は敗退しました。
2010年W杯予選でもバックアッパーとして9試合に出場しましたが、2010年3月のセリエAの試合で左足のアキレス腱を断裂し、本大会メンバーから外れました。
なお、2009年3月28日スロヴァキアとの親善試合ではムーアの持つ108試合を更新し、フィールドプレーヤーでの代表歴代最多出場記録を樹立しています。
代表記録 115試合17得点
2011年5月1日:新規アップ 2013年6月28日更新