エンツォ・ベアルツォット(Enzo BEARZOT)
フルネーム エンツォ・ベアルツォット
国籍 イタリア
出身地
生年月日 1927・9・26
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1964〜67 トリノユース
1967〜68 トリノGKコーチ
1968〜69 プラト
1969〜75 イタリアユース代表(フル代表コーチ兼任)
1975〜77 イタリア代表コーチ
1977〜86 イタリア代表
獲得タイトル 82FIFAワールドカップ
現役時代はCBとして活躍します。セリエBプロゴリツァでプロデビューし、インテル、トリノ、カターニャでプレーしました。1試合のみですが、イタリア代表歴もあります。

基本的には「堅守・速攻」というイタリア伝統の戦術を用いますが、創造性やテクニックにも重点を置きます。若手起用も躊躇せず、選手に戦術をはめ込むこともせず、独自の感性でチーム作りを行います。1982年W杯を制したチームは国民から最も愛される存在となりました。
代表的なフォーメーションはWGを配置する4−3−3です。

1964年にトリノで現役を引退すると、そのままチームに残り若手の指導にあたります。その後セリエCプラトで初めて監督を務めましたが、1年余りで代表スタッフに抜擢されました。ユース代表とフル代表コーチ兼任という重要な役割を担うこととなりましたが、それだけ指導力が高く評価されていたことの裏返しであったことは想像に難くありません。
そしてバルカレッジ監督のアシスタントとして、1970年と1974年W杯を経験。その後ベルナルディ監督のアシスタントを経て1977年にイタリア代表監督に就任します。
翌1978年W杯1次リーグでは、アルゼンチン、ハンガリー、フランスと強豪ぞろいのグループを3連勝で突破。ロッシとベッテガがそれぞれ2ゴールを挙げてFWとしての役割を果たしました。2次リーグでは1勝1分で3戦目のオランダ戦に臨みます。この試合では相手ブランツのオウンゴールで先制するものの彼に同点ゴールを許し、ハーンのゴールで逆転負けを喫しました。続く3位決定戦でも先制こそするものの後半に逆転され、4位に終わりました。
1980年欧州選手権は地元開催ということもあり優勝への期待が高まっていましたが、ロッシがセリエAの八百長により2年間の出場停止処分を受けていました。チームは決定力不足となり、グループリーグはベルギーと勝ち点で並ぶも得失点差で3位決定戦に回りました。そしてチェコ・スロヴァキアとの試合ではグラツィアーニが同点弾を挙げるも、PK戦で敗れました。
1982年W杯前、セリエA得点王になったローマのプルッツォを起用せず、P・ロッシを処分解除後わずか2ヶ月、リーグ戦に3試合に出場しただけの状況で代表復帰させます。この選手起用に加え、グループリーグでポーランド、ペルー、カメルーン相手に引き分けたこと、特にロッシが1ゴールも挙げていなかったこともあり周囲から強い非難を浴びました。
2次リーグ開始まで沈黙を貫くと、初戦のアルゼンチン戦でもロッシを起用。ゴールはなかったものの、マラドーナ擁するこの強豪に2対1で競り勝ちます。迎えたブラジル戦でついにロッシが目覚め、ハットトリックで「黄金の中盤」を粉砕します。これを契機に準決勝ポーランド戦で2ゴール、決勝西ドイツ戦でも先制ゴールを決めて得点王に輝きました。強い信念が実り母国をポッツォ監督以来44年ぶり3度目の優勝に導き、同年にイタリア勲章を授与されました。
1986年W杯にも出場、アルトベッリが4試合で4ゴールと奮闘したのが唯一の見せ場でした。前回の英雄ロッシはエントリーこそされますが出場できず、ディ・ジェンナーロやコンティも精彩を欠き、決勝トーナメント初戦にてプラティニらを擁するフランスに敗れ辞任しました。
しばらく現場から離れた後、2002年にイタリア連盟の技術責任者に就任。2010年12月21日、ミラノにて83歳で亡くなっています。
※アイエッロ・デル・フリウーリ
2010年12月23日:新規アップ 2012年7月9日更新

80イタリア代表(欧州選手権4位)
  グラツィアーニ  
ベッテガ カウジオ
  アントニョーニ  
タルデッリ G・バレージ
カブリーニ ジェンティーレ
シレア コッロヴァーティ
  ゾフ  

82イタリア代表(W杯優勝)
  ロッシ  
グラツィアーニ コンティ
  アントニョーニ  
タルデッリ オリアリ
カブリーニ ジェンティーレ
シレア コッロヴァーティ
  ゾフ  

86イタリア代表(W杯ベスト16)
 ガルデリージ 
アルトベッリコンティ
バーニデ・ナポリ
 ディ・ジェンナーロ 
カブリーニコッロヴァーティ
シレアヴィエルコウッド
 ガッリ