フランコ・バレージ(Franco BARESI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | フランチェスキーノ・バレージ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | トラヴァリアート | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1960・5・8 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 172cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 76kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1982・12・4 ルーマニア戦 |
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代表背番号 | 2 6 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 82年 86年 90年 94年 |
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ニックネーム | 鉄人 | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 79,88,92〜94,96セリエA | ||||||||||||||||||||||||||||
82FIFAワールドカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
88/89,89/90,93/94UEFAチャンピオンズ・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
89,90FIFAインターコンティネンタル・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
77/78 ミラン | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
78/79 ミラン | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
79/80 ミラン | 28 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
80/81 ミラン(2部) | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
81/82 ミラン | 18 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
82/83 ミラン(2部) | 30 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
83/84 ミラン | 21 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 ミラン | 26 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
85/86 ミラン | 20 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 ミラン | 28 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 ミラン | 27 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 ミラン | 33 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 ミラン | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 ミラン | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 ミラン | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
92/93 ミラン | 29 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
93/94 ミラン | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
94/95 ミラン | 28 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
95/96 ミラン 6 | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
96/97 ミラン 6 | 26 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
状況判断や戦術理解に長け、的確なラインコントロールで相手の攻撃を封じます。また、抜群のキャプテンシーも兼ね備えるミランのパンディエラです。 トラヴァリアート出身。不幸にも10代で両親を亡くしますが、後のイタリア代表MF兄ジュゼッペや姉と共に成長します。14歳でアタランタやインテルのテストを受けますが、低身長を理由に不合格となりました。兄はインテルに合格しましたが、自身はミランに入団しました。 18歳でリードホルム監督によりトップに昇格し、4月23日H・ヴェローナ戦でセリエAデビュー。2年目は30試合に出てリーグ優勝に貢献、活躍したリヴェラの引退に華を添えました。 以降は最終ラインに定着しますが、79/80シーズンのラツィオ戦での八百長疑惑が発覚します。関わった選手が逮捕され、クラブの会長も永久追放、チームもラツィオと共に2部降格処分を受けました。翌年に1部に復帰しますが、スキャンダルにまみれたクラブから主力が離れ、自らもウイルス性の病気にかかりました。この影響でチームも再び降格となりました。 シーズンオフは引く手あまたでしたが、ミラン残留を表明。84/85シーズンにマルディーニ、コスタクルタがトップに昇格、既存のタソッティ含め鉄壁のDFラインを築くことになります。 なかなか優勝に手が届きませんでしたが、ベルルスコーニ会長就任で「オランダトリオ」など補強が進み、サッキ監督の高度な要求に応えてクラブ9年ぶりのリーグ優勝を果たしました。 また、88/89シーズンからチャンピオンズ杯、インターコンティネンタル杯、スーパー杯と3冠の連覇を達成。91/92シーズンは22勝12分の無敗優勝、国内リーグ3連覇、93/94シーズンの3度目のビッグイヤー(バルサ戦は出場停止)と黄金期の中心となりました。 96/97シーズン、リーグ戦541試合、公式戦719試合と当時のイタリア歴代1位の同一クラブ出場記録を作り現役を引退。長年の功績により、背番号6は永久欠番となりました。 その後は下部組織での指導やフロントと、引き続きミランに従事しています。 U−21欧州選手権は1980年と1982年にそれぞれ2試合に出場しました。U−21の代表ではありましたが、1980年欧州選手権のメンバーにも選ばれました。 1982年W杯では優勝メンバーに名を連ねますが、シレアの存在により出番は回らず、フル代表デビューは12月4日のルーマニア戦となりました。 1984年五輪は5試合1得点、1988年欧州選手権は4試合に出場し、いずれもベスト4になりました。1990年W杯はベルゴミやマルディーニを従え5バックの中心でプレー、7試合で2失点の堅守を見せて3位に貢献しました。 1994年大会はグループリーグ第2戦ノルウェー戦で右ヒザの半月板を損傷し、その後の試合出場は絶望視されます。その中でチームは決勝に進出、手術からわずか23日と驚異的な回復力でブラジルとの決勝に出場し、ロマーリオとベベトに仕事をさせずPK戦にもつれます。 そして最初のキッカーになりますが、病み上がりで酷暑の中を120分戦った疲労困憊の状態で渾身の力を込めた右足キックは無情にもバーを越え、その後マッサーロとR・バッジョが外して準優勝に終わりました。しかし不屈の精神力は世界中から称賛されました。 代表記録 81試合1得点 余談 ・94/95シーズンの9月4日ジェノア戦では、セリエA初スタメンのカズと空中で競り合った際、後頭部が彼の顔面に直撃しています。 2017年10月22日:新規アップ |