バレー(BARE)
フルネーム ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー
国籍 ブラジル バレー
出身地
生年月日 1982・1・18
身長 190cm
体重 77kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー  
代表背番号  
W杯メンバー  
ニックネーム バレー
個人タイトル 07Jリーグベストイレブン 
チームタイトル 07ナビスコカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
98 デフェンソール    
98 グアラニ    
99 グアラニ    
00 グレミオ    
01 モンテビデオ・ワンダラーズ    
01 大宮アルディージャ(日本J2) 30 30 13
02 ヴァイレ(デンマーク)    
03 大宮アルディージャ(日本J2) 11 43 22
04 大宮アルディージャ(日本J2) 11 41 15
05 ヴァンフォーレ甲府(日本J2) 16 38 21
06 ヴァンフォーレ甲府(日本) 16 30 14
07 ガンバ大阪(日本) 18 31 20
08 ガンバ大阪(日本) 18 18 10
08/09 アル・アハリ(UAE)9 10 11
09/10 アル・アハリ(UAE) 9 19 11
10/11 アル・ジャジーラ(UAE) 9 20 12
11/12 アル・ジャジーラ(UAE) 9 14 11
12/13 アル・アラビ(カタール) 18
13 清水エスパルス(日本) 9 16
13 天津泰達(中国) 40 13
14 天津泰達(中国) 9 16
15 ヴァンフォーレ甲府(日本) 10 22
16 グロリア    
スピードある突破や裏へ抜け出しから強烈なシュートを放ちます。爆発力もあり固め取りもしますが、高身長もポストワークが苦手で、サイドに流れることもあるためWGでの起用もあります。
また、個人能力の高さゆえに独善的になりがちで、周囲との連係に改善の余地があります。

べナンシオアイレス市生まれ。自身が生まれて間もなく父親が他界したため、貧しい生活を強いられます。12歳のころから自身も母親と共にスーパーで働きました。
午前中に働いて午後から学校へ通い、その後はスポーツをして少年時代を過ごします。13歳でグアラニのテストに合格しますが、入団しませんでした。しかし17歳の時に兄に誘われて町のサッカー大会に出場して活躍し、グアラニから誘いを受けて練習生契約を交わします。
2年後にロナウヂーニョを輩出した名門グレミオに入団。1年間プレーしたあと大宮へ期限付き移籍して初めてプロ契約を結びます。エースのD・バルデスがパナマ代表招集を受けてチームを離れたため出番が回り、2001年5月23日水戸戦で初めて日本のピッチに立って即座にゴールを決めます。さらに4試合連続ゴールと順応性の高さを見せ、チーム2位の13ゴールをマークしました。また、自身がゴールを挙げた試合はすべて勝利し、不敗神話も生まれました。
その後デンマークへ渡るものの、わずか4ヶ月で戦力外通告を受けて母国ボタフォゴで再起します。2003年に大宮に戻ってゴールを量産し、クラブ史上初のJ1昇格に貢献しましたが、契約は更新されませんでした。しかし複数のクラブからオファーが届き、甲府に入団して再びJ2での戦いに身を投じます。藤田や倉貫らと共に大木監督の攻撃的戦術の中核として21ゴールを挙げて3位躍進に貢献。その後の柏との入れ替え戦では1stレグで1ゴールを挙げると、2ndレグでダブルハットトリックを決めてクラブ史上初のJ1昇格の立役者となりました。
06シーズン、初のJ1でも活躍して残留に貢献すると、07シーズンにG大阪へ引き抜かれます。ナビスコ杯を制して初タイトルを獲得すると、リーグでも名古屋戦でのハットトリックなど得点王ジュニーニョに次ぐ20ゴールを挙げてベストイレブンに選ばれ、大きく飛躍を遂げました。08シーズンも前半戦で10ゴールを挙げますが、7年過ごした日本を後にしました。
UAEでも凄まじい破壊力を見せ、10/11シーズンのアル・アイン戦でハットトリックを達成。翌シーズンのカップ戦でも11試合で7ゴールと素晴らしい時を過ごしました。しかし13シーズンのJやその後の中国では思うような結果を残せませんでした。
15シーズンに苦戦する甲府のオファーに応えます。5月からの加入だったため2ケタには届きませんでしたが、チームをJ1に残留させて母国に戻っています。

余談
・「バレー」は通称で、安価だったため愛飲していたコーラの名称にちなんでいます。
※:べナンシオアイレス

2008年1月18日:新規アップ 2016年2月24日更新