マリオ・バロテッリ(Mario BALOTELLI)
フルネーム マリオ・バロテッリ・バルウアー
国籍 イタリア
出身地 パレルモ
生年月日 1990・8・12
身長 190cm
体重 85kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2010・8・10
コートジボワール戦
代表背番号
W杯メンバー 14年
ニックネーム  
個人タイトル 12UEFA欧州選手権得点王(3得点)
12UEFA欧州選手権ベストイレブン
チームタイトル 06/07〜09/10セリエA
09/10コッパ・イタリア
09/10UEFAチャンピオンズ・リーグ
10/11FAカップ
11/12プレミアリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
05/06 ルメッツァーネ(3部)
06/07 インテル 45
07/08 インテル 45 11
08/09 インテル 45 22
09/10 インテル 45 26
10/11 マンチェスター・シティ(イングランド) 45 17
11/12 マンチェスター・シティ(イングランド) 45 23 13
12/13 マンチェスター・シティ(イングランド) 45 14
12/13 ミラン 45 13 12
13/14 ミラン 45 30 14
14/15 リヴァプール(イングランド) 45 16
15/16 ミラン 45 20
16/17 ニース(フランス) 9 23 15
17/18 ニース(フランス) 9 28 18
18/19 ニース(フランス) 9 10
18/19 マルセイユ(フランス) 9 15
19/20 ブレッシャ(2部) 45    
多くの物議を醸す言動を差し引いても、高い身体能力とスピード、テクニック、力強い右足シュートなど規格外のスケールが魅力のイタリア代表FWです。

イタリアのパレルモで、ガーナ移民の父トーマス、母ローズの下「マリオ・バルウアー」として生まれます。当時は腸の手術を繰り返し、その費用が莫大だったため3歳でブレシアに住むフランチェスコとシルヴィア夫妻に養子に出され、「マリオ・バロテッリ」となります。
キャリアは15歳の時にセリエC1のルメッツァーネから始まります。翌年にはインテルと3年契約を結んで2年目の2007年12月16日カリアリ戦でセリエAデビューし、フィオレンティーナなどから3得点を挙げます。国内カップでもレッジーナ戦で2得点を挙げて4−1で勝利すると、準々決勝ユヴェントス戦2ndレグでも2得点を挙げて才能の片りんを見せました。
08/09シーズンはローマ戦で2点、ユヴェントス戦で1点挙げてライバル相手にいずれも勝ち点1を獲得。チャンピオンズ・リーグのアノルソシス戦で18歳85日というクラブの同大会最年少得点記録を樹立し、さらに2アシストと全3得点に絡む働きを見せました。
09/10シーズン、国内リーグでは先発とベンチスタートが半々でチーム3位の9得点を挙げましたが、3月にはテレビ番組でミランのユニフォームにそでを通しました。また、チャンピオンズ・リーグではルビン戦で退場して勝ち点3を得られず、準決勝バルセロナ戦の後にはロッカーで同僚と小競り合いになりました。モウリーニョ監督はじめ周囲との諍いが絶えず、イタリア初の3冠を達成したにもかかわらず、インテルを後にする事態となりました。
10/11シーズンに恩師マンチーニ率いるマンチェスター・Cに移籍し、10月24日アーセナル戦でプレミアデビュー。第11節WBA戦で2得点を挙げるも退場となります。復帰後はヨーロッパリーグ、ザルツブルク戦での2得点、国内アストン・ヴィラ戦のハットトリックと猛威をふるい、FA杯でもアストン・ヴィラから得点を奪ってクラブ35年ぶりのタイトル獲得に貢献します。2年目もマンチェスター・ダービーで2点を挙げて6−1で大勝する原動力となり、この効果もあってクラブ44年ぶりのリーグ制覇を果たします。しかしリヴァプール戦では途中出場から退場し、アーセナル戦でも退場して敗戦するなどピッチ内外での奔放な行動は収まらず、ジェコやアグエロと相次ぐストライカーの加入もあってスタメン定着とは言い難いものになりました。
やがてマンチーニ監督の許容範囲を超え、12/13シーズンにミランに放出されます。しかしこれが奏功し、ウディネーゼとの初戦で2点を挙げたのを皮切りに3試合連続でネットを揺らすなど13試合で12得点と大暴れし、エル・シャーラウィとの2トップを確かなものにします。翌シーズンもヴェローナ戦での決勝点やカリアリ戦で逆転を呼び込む同点弾、フィオレンティーナ戦での追加点などチーム最多の14得点をマーク。チャンピオンズ・リーグはプレーオフでPSV、グループリーグでセルティックから得点を挙げてイタリア勢で唯一決勝トーナメントに進みました。
14/15シーズンにリヴァプールへ完全移籍します。8月31日トッテナム戦でプレミアデビューしますが、チームとかみ合わずトップ定着以来最低の数字に終わりました。そして翌シーズンにミランへ戻りますがノーインパクトに終わりました。
16/17シーズンにニースへ移籍し、9月11日マルセイユ戦でリーグアンデビュー。この試合や優勝するモナコ戦など4度も1試合2ゴールを決め、自己最多の数字を残しました。2年目もモナコ相手の2ゴールから4連発します。ディジョン戦は決勝点を挙げながらもレッドを受けますが、復帰2戦目のメッツ戦から4連発、終盤も3連発するなど自己最高記録を更新しました。ヨーロッパリーグも7試合で6ゴールを挙げて決勝トーナメントに進出しました。
3年目はノーゴールと精彩を欠き、マルセイユへ移ります。途中での加入ながらトヴァンに次ぐチーム2位の8ゴールと巻き返しました。
19/20シーズンに母国2部ブレッシャへ移籍しています。

17歳の誕生日を5日後に控えた2007年8月7日、ルーツがあるガーナから代表入りを志願されるものの固辞します。翌年8月13日にイタリア国籍を取得し、カジラギ監督により2009年欧州選手権予選となる9月5日ギリシャ戦でU−21デビューして得点を記録します。そしてイスラエルとのプレーオフ2ndレグで2点を決めて出場権を得ると、本大会では3試合戦いスウェーデン戦で得点を挙げるものの退場処分を受け、チームもベスト4にとどまりました。
二十歳の誕生日を2日後に控えた2010年8月10日、プランデッリ政権の初陣となるコートジボワール戦でフル代表デビュー。2年後の欧州選手権予選は2試合の途中出場に終わりましたが、本大会ではカッサーノと2トップを形成、アイルランド戦でボレーを決め、優勝候補のドイツ戦でもヘディングにミドルと力強い攻撃を披露して、F・トーレスやC・ロナウドら6人と得点王のタイトルを分け合います。しかし決勝スペイン戦では完封され、表彰式で涙を流しました。
2013年コンフェデ杯はメキシコ戦で決勝点、日本戦でPKを成功させましたが、肝心のブラジル戦は無得点に終わり、ウルグアイ戦は出場しませんでした。
2014年W杯予選も、デンマーク戦やチェコ戦など5試合5得点で出場権を獲得。そしてイングランドからヘッドで決勝点を挙げますが、コスタリカ戦で好機を逸し、ウルグアイ戦では相手への飛び蹴りで警告を受けて前半終了後に交代、グループリーグで敗退しました。
代表記録

2013年6月20日:新規アップ 2019年8月20日更新