ロベルト・アジャラ(Rovert AYALA)
フルネーム ロベルト・ファビアン・アジャラ
国籍 アルゼンチン
出身地 パラナ
生年月日 1973・4・14
身長 177cm
体重 75kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK  
キャプテン経験 代表
代表デビュー 1994・11・16
チリ戦
代表背番号
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム ネズミ
個人タイトル 00/01UEFA最優秀DF
チームタイトル 95アルゼンチンリーグ
98/99セリエA
01/02,03/04リーガ・エスパニョーラ
03/04UEFAカップ
04アテネオリンピック金メダル
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91/92 フェッロ 18
92/93 フェッロ 36
93/94 フェッロ 18
93/94 リーベル・プレート 16
94/95 リーベル・プレート 24
95/96 ナポリ(イタリア) 29
96/97 ナポリ(イタリア) 30
97/98 ナポリ(イタリア) 28
98/99 ミラン(イタリア) 14 11
99/00 ミラン(イタリア) 14 13
00/01 バレンシア(スペイン) 12 28
01/02 バレンシア(スペイン) 4 29
02/03 バレンシア(スペイン) 4 31
03/04 バレンシア(スペイン) 4 30
04/05 バレンシア(スペイン) 4 17
05/06 バレンシア(スペイン) 4 23
06/07 バレンシア(スペイン) 4 29
07/08 サラゴサ(スペイン) 6 28
08/09 サラゴサ(スペイン2部) 6 30
09/10 サラゴサ(スペイン) 4 13
09/10 ラシン・クラブ 2 10
10/11 ラシン・クラブ 2
身長は高くありませんが、跳躍力に加え、空中で体をうまく使って制空権を握ります。身体能力に優れ、強烈なタックル、執拗なマンマーク、カバーリングも的確です。また、持ち前の統率力で最終ラインに安定感をもたらすこともできるなど、DFとしての資質は世界最高峰です。

サッカー選手として活躍していた父の下に生まれ、10歳でボールを蹴り始めます。14歳で父がプレーするサン・ホセというクラブに入りました。父親がボランチとして、自身はCBとして守備陣を形成しました。1988年にパラナエンセへ移籍すると、父親が監督に就任しました。
1992年にフェッロでプロのキャリアをスタートさせ、2月23日ベルグラーノ戦でプロデビューしました。その後名門リーベルに移籍し、パサレラ監督の下リーグ優勝に貢献する働きを見せました。この活躍でイタリアのパルマに引き抜かれましたが、1試合も出場せずにナポリへ移籍します。ここでは3シーズン在籍してレギュラーとしてプレーし、A残留に貢献しました。
98/99シーズンにミランへ移籍しますが、マルディーニ、コスタクルタの牙城を崩せませんでした。また、翌シーズンのミラノダービーに出場した際、インテルのFWロナウドに言葉で脅かしていましたが、彼から顔面にヒジ打ちを食らい、それ以来因縁が残ることになりました。
2000年9月にバレンシアのクーペル監督が獲得を熱望し、推定9億円で移籍します。チームはデュキッチや同胞の先輩ペジェグリーノらの存在で安定した堅守を誇っていましたが、自身の加入で層が厚くなります。初出場のチャンピオンズ・リーグでは準々決勝のアーセナル戦でアウェーゴールを記録し、チームを2年連続のファイナリストとしました。決勝バイエルン戦では負傷のためやむなくピッチを去ることになりましたが、最優秀DF賞を獲得しました。
翌シーズンにはリーグ優勝、さらに03/04シーズンにはリーグとUEFA杯の2冠を達成し、チームにとって欠かせない選手の一人となります。2006年はクラブのフロントとの契約延長問題で退団を希望しましたが、最終的には残留しました。
シーズン終了後、一度はビジャレアルへの移籍が決まっていましたが撤回し、サラゴサへ電撃的に入団します。初年度こそ6位とUEFA杯出場権を獲得しましたが、翌シーズンにこの大会出場によるあおりを受けて2部降格を味わいました。
10/11シーズンに約15年ぶりに母国へ復帰し、2年目を最後に引退しました。

パサレラ監督に見出され1994年11月16日のチリ戦でフル代表デビューし、3−0での完封勝利に貢献。翌年のコンフェデ杯では日本戦など3試合戦って準優勝になりました。2年後のアトランタ五輪にも6試合出場して銀メダルを獲得しました。
1998年W杯予選に11試合出場、本大会では日本、クロアチア、ジャマイカと同じグループに入り、3試合とも完封勝利を飾ります。決勝トーナメントでは準々決勝のオランダ戦でベルカンプにロスタイムに逆転ゴールを許し敗退しました。自身は5試合フル出場を果たしています。
2002年W杯予選ではチーム最多の17試合に出場し本大会出場を決めましたが、筋肉を痛めて1試合も出場できませんでした。2年後のコパ・アメリカでは6試合戦い準優勝になり、アテネ五輪ではMFキリ・ゴンサレスとともにオーバーエージ枠で出場。フル代表同様に主将を務め全6試合出場しました。サビオラ、テベス、ダレッサンドロ、マスチェラーノなどがそろったチームは大会を無失点で終え、自身初の国際タイトルとなる金メダルを獲得しました。
2006年W杯予選は11試合に出場し、サムエルやサネッティが落選する中メンバーに選出されます。本大会では全試合フル出場し、準々決勝のアルゼンチン戦でリケルメのCKからヘディングシュートを決めましたが、PK戦で失敗し敗退しています。
代表記録 115試合7得点

余談
・2006年5月30日のアンゴラ戦で、代表史上3人目となる100試合出場を達成しました。
2006年11月9日:新規アップ 2012年9月1日更新