フルネーム アリョーシャ・アサノヴィッチ
国籍 クロアチア  
出身地 スプリト
生年月日 1965・12・14
身長 186cm
体重 82kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1990・10・17
アメリカ戦
代表背番号
W杯メンバー 98年
ニックネーム 炎の肘
個人タイトル  
チームタイトル 86/87ユーゴスラヴィアカップ
94/95クロアチアリーグ
94/95クロアチアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
84/85 ハイデュク・スプリト 31
85/86 ハイデュク・スプリト 29
86/87 ハイデュク・スプリト 27
87/88 ハイデュク・スプリト 25
88/89 ハイデュク・スプリト 31 14
89/90 ハイデュク・スプリト 30 14
90/91 メッツ(フランス) 35 13
91/92 カンヌ(フランス) 28
92/93 モンペリエ(フランス) 13
93/94 モンペリエ(フランス) 30
94/95 ハイデュク・スプリト 21
95/96 ハイデュク・スプリト 12
95/96 バジャドリー(スペイン) 17
96/97 ダービー(イングランド) 10 34
97/98 ダービー(イングランド) 10
97/98 ナポリ(イタリア) 30 15
98/99 パナシナイコス(ギリシャ) 25
99/00 パナシナイコス(ギリシャ) 19
00/01 オーストリア・ウィーン(オーストリア)
00/01 シドニー・ユナイテッド(オーストラリア)
01/02 シドニー・ユナイテッド(オーストラリア)
01/02 ハイデュク・スプリト
冷静に戦況を把握し、正確な長短のパスでゲームを組み立てるクラシカルな司令塔。鋭さと力強さを兼ね備えた左足のシュートおよびFKも特長です。

H・スプリトのユースで育ったアサノヴィッチは、84/85シーズンにトップチームに昇格します。1年目から31試合6得点と優れた才能を世に知らしめ、MFグデリ、スリシュコヴィッチ、エースのヴヨヴィッチと共に活躍して3年目にカップ戦を制します。その後もヤルニやボクシッチとクロアチア躍進の原動力となる面々と戦って得点力も向上して海外からも注目されます。
その中でフランスに渡り、メッツでは35試合13得点と前評判にたがわぬ結果を残しました。カンヌではL・フェルナンデスや若きジダンと中盤を組みましたが、19位で2部降格となりました。モンペリエでは1年目こそ苦戦しましたが、2年目に面目を保ちました。
94/95シーズンにH・スプリトに戻ります。プラリヤの台頭でベンチに控えることも多かったものの、国内2冠を達成しました。翌シーズンのチャンピオンズ・リーグ予選L・ワルシャワ戦で2点を取ってクロアチア初の本大会出場に貢献し、最終的にベスト8になりました。
その後バジャドリーへレンタルされますが、結果は出ませんでした。ダービーでは1996年8月17日リーズ戦でプレミアにデビュー、H・スプリト時代に共に戦ったDFスティマッツの存在もありスムーズにチームに適応、アウェーのチェルシー戦以外は得点を挙げた全試合で勝利しました。2年目の途中にナポリに移って15試合に出場しますが、最下位に終わりました。
1998年W杯終了後にパナシナイコスに移ります。MFコンスタンティニディスやカラグーニスのサポートもあり、FWリベロプーロスやポーランド代表FWワジチャにチャンスを供給しました。その後2年はまともにプレーできず、01/02シーズンに古巣でキャリアを終えました。
指導者としては、代表での僚友だったビリッチ監督の右腕として働いています。

1987年3月25日オーストラリア戦でユーゴスラヴィア代表デビューし、翌年の欧州選手権予選も1試合戦いました。クロアチア代表としては1990年10月17日アメリカ戦でデビューし、同国初得点をマークしました。1996年欧州選手権で8試合、本大会で4試合に出場してベスト8になりました。翌年6月8日の日本戦では試合こそ敗れましたが、2得点を決めました。
1998年W杯予選は9試合に出場、7試合に出た本大会は日本戦でドリブルからのループパスでシュケルをアシスト。優勝するフランスにも一時リードするなど3位と躍進しました。
2000年欧州選手権予選も8試合とフルに働きましたが、3位で敗退しました。
代表記録(ユーゴスラヴィア) 3試合
代表記録(クロアチア) 62試合3得点

※:アリョーシャ・アサノヴィッチ(Aljosa ASANOVIC)
2017年8月27日:新規アップ