アンドレイ・アルシャヴィン(Andrei ARSHAVIN)
フルネーム アンドレイ・セルゲイヴィチ・アルシャヴィン
国籍 ロシア
出身地
生年月日 1981・5・29
身長 172cm
体重 69kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2002・5・17
ベラルーシ戦
代表背番号 10
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 06ロシア年間最優秀選手
08UEFA欧州選手権ベストイレブン
チームタイトル 03ロシアリーグ・カップ
07,11/12,14/15ロシアリーグ
07/08UEFAカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
00 ゼニト 23 10
01 ゼニト 15 29
02 ゼニト 15 30
03 ゼニト 10 27
04 ゼニト 10 26
05 ゼニト 10 29
06 ゼニト 10 28
07 ゼニト 10 30 10
08 ゼニト 10 27
08/09 アーセナル(イングランド) 23 12
09/10 アーセナル(イングランド) 23 30 10
10/11 アーセナル(イングランド) 23 37
11/12 アーセナル(イングランド) 23 19
11/12 ゼニト 29 10
12/13 アーセナル(イングランド) 23
13/14 ゼニト 23 21
14/15 ゼニト 23 14
15/16 ゼニト 23
16 カイラト(カザフスタン) 28 28
17 カイラト(カザフスタン) 28 25
18 カイラト(カザフスタン) 28 31
抜群の瞬発力とスピード、技術で対峙するDFを置き去りにするドリブルと決定的なパス、さらに得点力も備えます。持ち前のリーダーシップで精神的支柱としても働き、童顔に華奢な体躯といったルックスも相まって高い人気を誇っています。

ロシア第二の都市サンクトペテルブルク(ソ連当時の呼称はレニングラード)に生まれ、アマチュア選手だった父親の影響を受けて7歳でサッカーを始めます。
両親が離婚したこともあって貧しい生活を強いられましたが、シメナフットボールスクールを経て地元ゼニトの下部組織に入団。ここで多くの経験を積んだ後00/01シーズンの8月2日、インタートト杯ブラッドフォード戦にてトップチームデビューを果たします。
初年度は10試合で無得点に終わりましたが、翌年からは主力としてチームをけん引、FWケルジャコフらアシストし、03シーズンはリーグ杯で優勝しました。
05/06シーズンはUEFA杯では13試合で5得点を決めてベスト8進出の原動力になると、国内リーグの06シーズンは13アシスト7得点でリーグ最優秀選手に選ばれます。翌07シーズンは全30試合に出場、10得点11アシストで84シーズン以来実に23年ぶりにリーグタイトルを故郷に持ち帰ります。また、07/08シーズンUEFA杯ではバイエルンを破るなどして決勝に進出すると、レンジャーズを2−0で破りチームの欧州初タイトル獲得に貢献します。決勝ではマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、大会最多の5アシストと結果を残しました。
クラブと代表双方での躍進に注目が集まり、マーケットで脚光を浴びましたが、ゼニト側が設定した移籍金額が、提示してきたバルセロナやトッテナムなどのそれと大きく隔たりがあったため、夏での移籍はなりませんでした。08/09シーズンにはチャンピオンズ・リーグにデビューしてR・マドリーなどと対戦しますが、グループリーグ敗退に終わりました。
冬にアーセナルへ移り、2009年2月22日サンダーランド戦でプレミアデビュー。3月14日ブラックバーン戦で初得点し、4月21日リヴァプール戦ではウルヴズのデニス・ウェストコットが1946年に記録して以来アンフィールドで4得点、と同時にプレミアリーグ史上6人目のアウェーゲームで4得点を挙げた選手となりました。この活躍もありチームやリーグ月間最優秀選手になり、主将も任されるなど即座に適応、12試合6得点5アシストと好成績を残しました。
09/10シーズンは、マンチェスター・Uやリヴァプール戦など2ケタ得点し、チャンピオンズ・リーグでも6試合戦ってAZ戦で3アシスト、ポルト戦で2アシストしました。
10/11シーズンのチャンピオンズ・リーグでは、バルサとの決勝トーナメント初戦1stレグで勝ち越し点を挙げますが、2ndレグで逆転されました。リーグ戦では自己最多の37試合に出場してアシスト数を2ケタに乗せました。しかし翌シーズンはジェルヴィーニョの加入で出番を失い、ゼニトへレンタルで復帰。C・モスクワやR・カザンなど3得点を挙げてリーグを制しました。
その後再びアーセナルに戻りますが、ポドルスキやカソルラの充実したパフォーマンスの前にわずか7試合の途中出場にとどまり、フリーでゼニトに復帰。ケルジャコフ、フッキ、ダニーと層が厚いためスーパーサブとなり、チャンピオンズ・リーグ予選で2得点を取りました。
16シーズンからのカザフスタンリーグでは4月3日アクジャイク戦でのデビュー以降、2年目と3年目に3連発するなどコンスタントに活躍しました。

2002年5月17日ベラルーシ戦で代表デビュー。直後のW杯や2004年欧州選手権に出られず、2006年W杯予選でも10試合で5得点を挙げますが、本戦を逃しました。
ヒディンク監督就任後の2008年欧州選手権予選では全12試合に出て3得点を挙げ、母国の2大会連続出場権獲得に貢献します。しかし予選最終節アンドラ戦で暴行を働き、退場処分と本大会のグループリーグ2試合出場停止処分を受けました。
本戦メンバー入りも危ぶまれますがヒディンク監督からの信頼は揺るがず、復帰した第3戦でパヴリュチェンコの先制点の起点になると同時に自らも得点を記録、続くオランダ戦でも1得点1アシストと欠場の穴埋めに成功して世界にその名を知らしめました。
2009年6月からキャプテンを務めます。2010年W杯予選では11試合3得点を挙げますが、スロヴェニアとのプレーオフで敗れました。
2012年欧州選手権予選はV・ベレズツキと共に全10試合に出場するものの、無得点に終わります。本大会でも3アシストを決めますが、自らの得点はありませんでした。
代表記録 73試合16得点

※:サンクトペテルブルク
2011年4月3日:新規アップ 2019年8月15日更新