青山 敏弘(Toshihiro AOYAMA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 青山 敏弘(アオヤマ トシヒロ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 岡山県倉敷市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1986・2・22 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(DMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2013・7・21 中国戦 |
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代表背番号 | 14 28 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 14年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | アオ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 12,13,15Jリーグベストイレブン | ||||||||||||||||||||||||||||
15Jリーグ年間最優秀選手 | |||||||||||||||||||||||||||||
15Jリーグチャンピオンシップ最優秀選手 | |||||||||||||||||||||||||||||
15J1最優秀ゴール賞 | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 12,13,15Jリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
06 サンフレッチェ広島 23 | 19 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
07 サンフレッチェ広島 6 | 28 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08 サンフレッチェ広島(J2) 6 | 36 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
09 サンフレッチェ広島 6 | 29 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
10 サンフレッチェ広島 6 | 23 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
11 サンフレッチェ広島 6 | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
12 サンフレッチェ広島 6 | 34 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
13 サンフレッチェ広島 6 | 33 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
14 サンフレッチェ広島 6 | 25 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
15 サンフレッチェ広島 6 | 33 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
16 サンフレッチェ広島 6 | 28 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
17 サンフレッチェ広島 6 | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
18 サンフレッチェ広島 6 | |||||||||||||||||||||||||||||
高度な戦術眼と強靭な肉体でピッチをケアします。キック力はJ屈指で、ロングシュート、フィードで相手をけん制します。メンタルも充実し、周囲からの信頼も厚い広島の主将です。 岡山県倉敷市生まれ。フィギュアの高橋大輔選手とは保育園からの幼馴染で、後に共に日の丸を背負って戦うことになります。小学1年でサッカーを始め、作陽高に進みます。2年の時の高校選手権県大会決勝水島工業戦ではゴールが誤審で認められず、敗退しました。 特別指定選手を経て2004年に広島に入団し、ナビスコ杯横浜FM戦でプロ初ゴールを決めました。翌年は左ヒザ前十字じん帯を断裂しました。 2006年7月19日名古屋戦でJ1にデビュー。経験豊富な戸田やリ・ハンジェがいる中でペトロヴィッチ監督から主力を任され森崎和とのコンビを形成、鹿島戦でゴールを決めました。2年目に主軸になりますが、16位とまさかの降格となります。しかしチームに残り4ゴールすべてでチームを勝利に導き、佐藤寿や高萩、柏木らと共に1年でのJ1復帰を果たしました。 09シーズンはG大阪戦など3ゴールを挙げ、昇格して一気に4位に躍進しました。その後はペトロヴィッチ監督はじめ主力が浦和へ去りますが、森保監督の下でJリーグを連覇しました。クラブW杯でも2012年にオークランドから決勝ゴールを挙げました。 主将に就任した14シーズンは8位と苦しみ、8試合に出たACLでも小野擁するW・シドニーに敗れました。しかし翌シーズンは3度目のリーグ優勝を果たし、MVPや鳥栖戦のボレーシュートによる最優秀ゴールなど、多くの個人タイトルも手中にしました。 ユース代表として北京五輪予選を戦いますが、ケガもあり本戦出場はなりませんでした。2013年7月21日、東アジア杯中国戦でフル代表デビューし、2試合戦って優勝しました。 2014年W杯予選は召集がなかったものの、Jリーグや親善試合でインパクトを残し、本大会メンバーに入ってコロンビア戦でプレーしました。 代表記録 2017年11月2日:新規アップ 2017年12月5日更新 |