アン・ヨンハ(Yong-Hak AN) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | アン・ヨンハ(安英学) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 北朝鮮 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1978・10・25 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 182cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(DMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2002・9・7 韓国戦 |
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代表背番号 | 17 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 10年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ヨンハ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 08Kリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
11Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
12天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
02 アルビレックス新潟(日本J2) 17 | 39 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
03 アルビレックス新潟(日本J2) 17 | 29 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
04 アルビレックス新潟(日本) 17 | 26 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
05 名古屋グランパス(日本) 17 | 21 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 釜山アイパーク(韓国) 17 | 17 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
07 釜山アイパーク(韓国) 17 | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
08 水原三星ブルーウィングス(韓国) 17 | 4 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 水原三星ブルーウィングス(韓国) 17 | 14 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
10 大宮アルディージャ(日本) 5 | 17 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
11 柏レイソル(日本) 17 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
12 柏レイソル(日本) 17 | 6 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
14 横浜FC(日本J2) 17 | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
15 横浜FC(日本J2) 17 | 7 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
16 横浜FC(日本J2) 17 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
東アジアのサッカーを熟知している北朝鮮代表MF。恵まれたフィジカルを擁し、中盤の低い位置での安定した守備と効果的なパスでチームの屋台骨となります。 在日コリアン3世として岡山県倉敷市に生まれます。5歳のころに東京に引っ越し、18歳まで朝鮮学校で過ごしましたがプロからの声はかからず、朝鮮高級学校卒業時には5年でプロになれなかったらサッカーをあきらめることを家族と約束し、決意を新たにしました。 一浪の末、立正大へ入学します。初めての日本での教育機関ということもあり環境の変化による戸惑いもありましたが、毎日の自主トレにより入学当時線が細かったフィジカルは著しい成長を遂げ、テクニックも向上、監督からオーバートレーニングを心配されるほどでした。 この努力が結実し、大学3年時の2000年に新潟の強化部長にキックの精度を見初められ入団します。2年後の3月3日、J2水戸戦でJデビューし、21日湘南戦では初ゴールをマーク。就任2年目の反町監督により1年目から主力を張り、翌シーズンには昇格を果たしました。 04シーズンを最後に新潟を離れ名古屋へ移ります。GK楢崎、DF秋田、MF藤田、ルーキーの本田圭といったタレントと共にプレーしましたが、21試合と精彩を欠きました。 そしてKリーグに活躍の場を移しますが釜山ではケガで戦線を離脱、その後の水原三星でも出場機会に恵まれなかったこともあり、W杯を見据え5年ぶりにJリーグへ復帰します。ここでは17試合の出場に終わりましたが、J1残留に成功しました。 11シーズンに柏へ完全移籍し、6年ぶりにネルシーニョ監督の下でプレーします。しかし大谷、栗澤、茨田と競争が激しくほとんどプレーできず、2年目を最後に退団しました。 その後1年のブランクを経て横浜FCで再出発しますが、3年目終了後に引退しました。 2002年8月に北朝鮮代表に招集されます。当初は在日である自身とチームメートの間に距離がありましたが、コーチが課す体力やキック力などのテストで実力を発揮し、周囲からの信頼を得ます。そして9月7日の韓国戦でデビューを果たしました。 2004年、2年後のW杯1次予選タイ戦で初先発すると2ゴールを挙げレギュラーを獲得、自身と同様在日Jリーガーであるリ・ハンジェらとチームの中盤を支えました。 2010年W杯予選では13試合に先発して44年ぶりの出場権獲得に貢献します。本大会ではブラジル、ポルトガル、コートジボワールと同居する死のグループにあって早期敗退を強いられたものの、全3試合にフル出場しました。 2011年アジア杯でも3試合フル出場、中東勢の前にグループリーグで敗れました。 代表記録 40試合3得点 ※:岡山県倉敷市(日本) 2011年9月2日:新規アップ 2017年6月4日更新 |