カルロ・アンチェロッティ(Carlo ANCELOTTI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | カルロ・アンチェロッティ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | レッジョーロ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1959・6・10 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 74kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(CMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1981・1・6 オランダ戦 |
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代表背番号 | 9 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 86年 90年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 79/80,80/81,83/84,85/86コッパ・イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||
82/83,87/88,91/92セリエA | |||||||||||||||||||||||||||||
88/89,89/90UEFAチャンピオンズ・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
89,90FIFAインターコンティネンタル・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
76/77 パルマ(3部) | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
77/78 パルマ(3部) | 21 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
78/79 パルマ(3部) | 33 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
79/80 ローマ | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
80/81 ローマ | 29 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
81/82 ローマ | 5 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
82/83 ローマ | 23 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
83/84 ローマ | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 ローマ | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
85/86 ローマ | 29 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 ローマ | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 ミラン | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 ミラン | 28 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 ミラン | 24 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 ミラン | 22 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 ミラン | 12 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
高度なテクニック、広い視野でゲームを作ります。また、優れた戦術眼とハードワークで本来のボランチだけでなく、サイドハーフやスイーパーで機能する利便性が特長です。 18歳で迎えた76/77シーズン、セリエCのパルマでプロデビュー。2年目からレギュラーになり、3年目は30試合以上に出場、プレーオフで結果を出してクラブの昇格に貢献しました。 79/80シーズンにローマに引き抜かれ、9月16日のミラン戦でセリエAデビュー。リードホルム監督のもと、ファルカン、コンティ、プルッツォらと共に国内カップを連覇し、プロハスカが加わった82/83シーズンにクラブ2度目のスクデットを獲得。翌シーズンはチャンピオンズ杯で決勝に進みますが、リヴァプールにPKで敗れ本拠地でのビッグイヤーはなりませんでした。 たび重なるケガに悩みながらも台頭してきた若きジャンニーニを後方から支援し、キャプテンを任されるなど、5つのタイトルを獲得して首都クラブに足跡を残しました。 87/88シーズンにミランへ移ります。同時に就任したサッキ監督の戦術に欠かせない存在となり2度目のスクデットを獲得。以降は鉄壁の守備陣や「オランダトリオ」と共に一時代を築きます。特に2年目のチャンピオンズ杯準決勝2ndレグでは、5-0と最多優勝を誇るR・マドリーを粉砕する口火を切ってクラブ20年ぶりのビッグイヤー獲得に貢献。翌シーズンもケガを押してベンフィカとの決勝に出場してタイトルを防衛しました。インターコンティネンタル杯でもコロンビアのナシオナルとパラグアイのオリンピアに連勝して日本に存在をアピールしました。 91/92シーズンはヒザの痛みやアルベルティーニの台頭で出場機会が減少、自身3度目のスクデットで有終の美を飾りました。その後サッキ監督のアシスタントとして1994年W杯に帯同、大会が終わるとレッジャーナから監督になり、パルマでリーグ2位になりました。 以降は国内外のビッグクラブを歴任し、多くのタイトルを手中に収めています。 1981年1月6日のオランダ戦で代表デビューし、唯一のゴールを挙げました。1986年W杯ではメンバーに入るものの、出場機会はありませんでした。 バレージ、マルディーニとクラブでのコンビネーションを磨いて臨んだ1988年欧州選手権では4試合に出場しますが、準決勝でソ連に敗れました。 1990年W杯はオーストリア戦で負傷しますが、イングランドとの3位争いを制しました。 代表記録 26試合1得点 2017年5月17日:新規アップ |