アレックス(ALEX)
フルネーム アレッサンドロ・デ・ソウザ
国籍 ブラジル
出身地 コリチーバ
生年月日 1977・9・14
身長 175cm
体重 73kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1998・9・23
ユーゴスラヴィア戦
代表背番号 10 11 20
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 95パラナ州選手権年間最優秀若手選手
97パラナ州選手権最優秀MF
98コパ・メルコスール得点王
02ミナスジェライス州選手権最優秀MF
03ミナスジェライス州選手権年間最優秀選手
03ボーラ・ジ・オーロ(プラカール誌)
03ボーラ・ジ・プラッタ(プラカール誌)
05,10,11トルコ年間最優秀選手
06/07,10/11トルコリーグ得点王
チームタイトル 98コパ・メルコスール
98,03ブラジルカップ
99,03FIFAコンフェデレーションズ・カップ
99,04CONMEBOLコパ・アメリカ
99コパ・リベルタドーレス
03,04ミナスジェライス州選手権
03ブラジル全国選手権
04/05,06/07,10/11トルコリーグ
06/07,08/09,11/12トルコカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 コリティーバ(2部)  
96 コリティーバ 17
97 パルメイラス 28
98 パルメイラス 10 23
99 パルメイラス 10 14
00 パルメイラス    
00 フラメンゴ 16 10
01 パルメイラス    
01 クルゼイロ 10 13
00/01 パルマ(イタリア)
02 クルゼイロ 10 13
03 クルゼイロ 10 37 23
04 クルゼイロ 10
04/05 フェネルバフチェ(トルコ) 20 31 24
05/06 フェネルバフチェ(トルコ) 20 31 15
06/07 フェネルバフチェ(トルコ) 20 32 19
07/08 フェネルバフチェ(トルコ) 20 28 14
08/09 フェネルバフチェ(トルコ) 10 26 11
09/10 フェネルバフチェ(トルコ) 10 26 11
10/11 フェネルバフチェ(トルコ) 10 33 28
11/12 フェネルバフチェ(トルコ) 10 33 14
12/13 フェネルバフチェ(トルコ) 10
13 コリティーバ 10 29 12
14 コリティーバ 10 26
フットサル仕込みの華麗なテクニックを見せるレフティー。絶妙なスルーパスで決定機を作り、FKやミドルなど得点力も高く、攻撃的MFあるいはSTとしてプレーします。
所属チームでキャプテンに就任することも多く、周囲からの厚い信頼がうかがえます。

パラナ州のコリチーバに、壁塗り職人の父親と家政婦の母親のもとに生まれます。週末に家族で草サッカーをするのが一家の最大の楽しみでした。母親が女性チームのGKだったので、自身も3歳頃からそこでボールを蹴っていました。
9歳の時に友人と共にコリティーバの試験を受けましたが、フィジカルが不足していたためフットサルのチームを紹介されました。3年後にコリティーバに入ったものの、多くボールに触れるフットサルの面白さに取り込まれていたため、サッカーの練習を嫌がったこともありました。それでも転向した後は培った技術を生かして18歳でトップに昇格し、1995年4月にプロデビューを果たします。翌年からレギュラーになってパルメイラスへの移籍となりました。
フェリペ監督の下、名門クラブでもすぐにレギュラーとなり、リベルタドーレスなど重要なタイトルを手にして個人タイトルも獲得します。00シーズンのリオ・サンパウロトーナメントのサンパウロ戦では、ゴール前でボールを受けると、DFとGK相手に連続して頭越しにボールを跳ね上げてゴールを奪う卓越した技術を披露して脚光を浴びるようになりました。
この活躍でセリエAのパルマへ移籍を果たすものの、アルゼンチン代表MFオルテガというワールドクラスの前にプレーするチャンスがなく、母国フラメンゴへレンタルされました。その後五輪での敗退もあり不遇の時を過ごしていましたが、クルゼイロに就任した恩師ルシェンブルゴに誘われて入団。03シーズンは国内3冠を成し遂げて見事に復活を果たしました。
2004年にフェネルバフチェへ入団します。名将ダウムの下、ファン・ホーイドンク、トゥンジャイらストライカーにアシストを量産し、自身もゴールをたたき出してリーグ優勝に貢献。チャンピオンズ・リーグにもグループリーグ全6試合、UEFA杯にも2試合出場しました。
やがてキャプテンに就任。06/07シーズンはチャンピオンズ・リーグこそD・キエフに予備選で敗れましたが、UEFA杯で8試合1ゴールを挙げます。国内でも19ゴールで得点王となり2度目のリーグ優勝となりました。翌シーズンは国内でライバルのベジクタシュから2ゴールを挙げ、チャンピオンズ・リーグでは大会最多の6アシストでクラブ初の決勝トーナメント進出を決めます。ジーコ監督、R・カルロス、M・アウレリオ(2007年にトルコに帰化)などの存在で、異国でありながらコミュニケーションに事欠かないのも躍進の要因になりました。
08/09シーズンはゲンチレルビルリジ戦でハットトリック、翌シーズンは1試合2ゴールを3回達成。10/11シーズンはブルサスポルやベジクタシュ相手のハットトリックに、本拠アンカラギュチュ戦での1試合4ゴールと自己最高の成績を残し、リーグ優勝に役割を果たしました。
しかしクラブに八百長疑惑が発覚、自身は9シーズン連続で2ケタゴールを挙げたものの、12/13シーズン開幕後にコリティーバに戻り、2年目に引退しました。

1997年Wユースでは4試合に出場、フランス戦で先制点を決めるとベルギー戦でハットトリックを達成するなど準々決勝に進出しました。シドニー五輪ではルシェンブルゴ監督から腕章と10番を託され、ロナウヂーニョと共に大黒柱となります。4試合に出場し、日本には自らのゴールで勝利したものの、準々決勝でカメルーンに敗れて非難を浴びました。
フル代表デビューは1998年9月23日ユーゴスラヴィア戦。1999年と2004年と2度のコパ・アメリカを制します。特に後者ではキャプテンとなり、トップ下からアドリアーノやR・オリヴェイラ、L・ファビアーノらのゴールを演出し、自身も1ゴールを挙げました。コンフェデ杯も1999年と2003年に出場し、2大会で通算7試合5ゴールと結果を残しました。
しかし、リヴァウド、ロナウヂーニョ、カカとライバルが多く、2002年W杯予選は7試合、2006年W杯予選には11試合出場したものの、いずれも本大会メンバーから外れています。
代表記録 48試合12得点

2008年2月24日:新規アップ 2015年8月16日更新