アドリアーノ(ADRIANO)
フルネーム アドリアーノ・レイテ・リベイロ
国籍 ブラジル
出身地 リオデジャネイロ
生年月日 1982・2・17
身長 189cm
体重 87kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 2001・11・15
コロンビア戦
代表背番号 7 9
W杯メンバー 06年
ニックネーム 皇帝
個人タイトル 04CONMEBOLコパ・アメリカ得点王(7得点)
05FIFAコンフェデレーションズ・カップ得点王(5得点)
05FIFAコンフェデレーションズ・カップ最優秀選手
09ボーラ・ジ・オーロ(プラカール誌)
09ボーラ・ジ・プラッタ(プラカール誌)
09ブラジル全国選手権得点王
09ブラジル全国選手権最優秀FW
チームタイトル 99FIFAU−17世界選手権
04/05コッパ・イタリア
04CONMEBOLコパ・アメリカ
05/06,06/07セリエA
05FIFAコンフェデレーションズ・カップ
08,09,11ブラジル全国選手権
所属クラブおよび背番号 出場 得点
00 フラメンゴ 17
01 フラメンゴ
01/02 インテル(イタリア)
01/02 フィオレンティーナ(イタリア) 90 15
02/03 パルマ(イタリア) 9 28 15
03/04 パルマ(イタリア) 9
03/04 インテル(イタリア) 10 16
04/05 インテル(イタリア) 10 30 16
05/06 インテル(イタリア) 10 30 13
06/07 インテル(イタリア) 10 23
07/08 インテル(イタリア) 10
08 サンパウロ 10 19 11
08/09 インテル(イタリア) 10 12
09 フラメンゴ 10 30 19
10 フラメンゴ 10
10/11 ローマ(イタリア) 8
11 コリンチャンス 10
12 フラメンゴ 10    
14 パラナエンセ 30
16 マイアミ・ユナイテッド(アメリカ4部) 10    
左足から放たれるキックが代名詞で、強烈なシュートやFKで脅威となります。強いフィジカルに任せるだけでなく、オフ・ザ・ボールやポジショニングにも優れたCFです。

リオデジャネイロのスラムに生まれ育ち、7歳でフラメンゴの育成組織に入ります。当初は左SBでしたが、15歳の時にC・アルベルト監督により、FWにコンバートされました。
2000年にトップに昇格して17試合6得点と結果を残し、インテルのスカウトの目に留まって2001年にMFヴァンペッタと交換する形で加入します。すぐに他クラブへレンタルされる予定でしたが、シーズン開幕前の8月14日、サンティアゴ・ベルナベウ・トーナメントというプレシーズンマッチで後半から途中出場し、9分にFKでネットを揺らして2−1の勝利に貢献。これによりクーペル監督がしばらく様子を見たいと発言し、レンタル移籍は先送りになりました。開幕2戦目の9月9日パルマ戦にてセリエAデビューし、続くヴェネツィア戦で初得点をマークしました。
その後実戦感覚を積むために、冬にフィオレンティーナへレンタル移籍します。ミラン、ローマ、ユヴェントスと強豪から得点を挙げますが、クラブが大きな財政問題を抱えていたため下部リーグに降格します。シーズン終了後に一度インテルに戻りましたが、その後今度はパルマが自身の所有権の半分を買い取ったため再度レンタルに出されました。
パルマではムトゥや中田英らと強力な攻撃陣を結成して開幕から3試合連発すると、終盤にもラツィオ、ミラン、ローマと3試合連続得点でチームを5位に導きUEFA杯出場権を獲得し、得点ランク5位タイの15得点を挙げました。翌シーズンも開幕直後から5試合連続で得点を挙げ、セリエA屈指のストライカーであることを証明します。途中で左大腿ニ頭筋を痛めて長期の戦線離脱となる不運もありましたが、復帰した試合で得点を決めて自身の存在を改めて周囲にアピールしました。パルマでの2シーズンの活躍を認められ、インテルに復帰しました。
04/05シーズンはヴィエリの調整不足で定位置を掴みます。国内では開幕から3試合連続得点、本拠ウディネーゼ戦で1試合2得点、メッシーナ戦でハットトリックを達成。チャンピオンズ・リーグでもバーゼルとの予備戦で2試合3得点、グループリーグでは3試合連続得点、ポルトとの決勝トーナメント2ndレグでハットトリックを達成するなど得点を量産、サポーターからインペラトーレ(皇帝)の愛称を授かりアイドルとなりました。ケガに悩んだ時期もありましたが、国内カップ決勝第1戦目で2得点を挙げてクラブに久々のタイトルをもたらします。翌シーズンも開幕戦からハットトリックを決めると、ローマやミラノダービーで1試合2得点、チャンピオンズ・リーグでもアルトメディア戦でのハットトリックなど、11試合6得点を挙げました。
しかし私生活に問題を抱え、さらに06/07シーズンは復帰したクレスポ、新加入のイブラヒモヴィッチの存在で構想外となりました。サンパウロで19試合11得点と結果を残してインテルに戻りますが、イブラとの2トップは機能せず、再度ブラジルへ戻りました。
フラメンゴでは30試合で19得点を挙げますが2年目はケガに泣き、ローマへの移籍もプレシーズンでのケガで開幕から欠場を余儀なくされました。
11シーズンの母国復帰後は精彩を欠く状況が続いています。

フラメンゴ在籍時にU−17代表に召集され、ニュージーランドで開催された1999年U−17世界選手権に参加、4試合に出場して優勝メンバーに名を連ねました。
レオン監督から召集を受け、2001年11月15日コロンビア戦でフル代表デビューも果たします。2002年W杯予選はこの1試合のみに終わりました。再び若いカテゴリーに加わり、アルゼンチンで行われたWユースでは5試合戦ってランク2位の6得点を挙げました。
フル代表に復帰すると2003年コンフェデ杯で3試合3得点を挙げ、2004年コパ・アメリカではコスタリカ相手のハットトリックや決勝アルゼンチン戦など7得点を決めます。さらに2005年コンフェデ杯も5試合4得点と確実に結果を残しました。
2006年W杯予選では9試合に出場、チリとのアウェー戦でのハットトリックなど6得点で、本大会出場を決めます。ロナウヂーニョ、ロナウド、カカと世界最高とも呼ばれる攻撃陣を形成、オーストラリア戦と決勝トーナメントのガーナ戦で得点を決めますが、ベスト8で終わりました。2010年W杯予選は6試合で1得点にとどまり、L・ファビアーノの存在で構想外となりました。
代表記録

2006年12月24日:新規アップ 2016年7月10日更新